復習 高齢者学習講座   日本の古代史


  ⑳長屋王の変

   1.長屋王(684~729年)について

    奈良時代の皇族、左大臣正二位、天武天皇の子の高市皇子の子

    皇族勢力の巨頭として重鎮になったものの、対立する藤原四兄弟の陰謀で長屋王の変で自害した

    氷室を所有し夏に食していたらしい、又、鶴を飼育していたらしい

    当時の年収は約1.3億円と推定される(日本の古代史⑱参照)

   2.「長屋王の変」の事件背景

     ①720年藤原不比等(659~720年)亡くなる

      彼は701年の大宝律令の編纂にかかわった、

      彼の子には四兄弟がおり、また娘の「宮子」を天武天皇に嫁がせている

      その間に生まれた子「聖武天皇」にも娘の「光明子(後の光明皇后)を嫁がせ皇族と藤原氏の

      接近をはかった

     ②皇位継承

      天武天皇の子「高市皇子」の子が「長屋王」で母は天智天皇の娘で長屋王は左大臣まで出世

      政権の対立者は藤原氏であった

      744年  聖武天皇が即位した折、天皇の産みの親である「宮子」を「大夫人」にする勅がでたが長屋王は反対する

      727年  聖武天皇と光明子の間に「基王」が生まれる(すでに718年に女の「阿部内親王」が生まれている)

           「基王」生後二か月で皇太子となる

      728年  「基王」病死

           一方、藤原氏に関係ない皇位継承の資格ある「安積親王」が生まれる

           したがって、藤原氏側は「阿部内親王」(後の孝謙天皇、称徳天皇)をたてようとしたが長屋王は

           大きな壁であった

           また、藤原氏側は光明子を皇后にしたかったが天皇の血がはいっていなかったのでできなかった

    ③ 729年 長屋王の変 

           2月 藤原氏4兄弟は「長屋王が基王を呪殺した」と噂し、長屋王を失脚・自害に追い込む

           8月 光明子が立后(光明皇后)

    ④ 738年 阿部内親王が立太子で女の皇太子となる

           天然痘が大流行、藤原4兄弟がつぎつぎと死す、長屋王のたたりかとの噂

 


  21「防人」

 

   1.防人(さきもり)について

   663年朝鮮半島の百済救援のため倭軍は出兵するが、唐・新羅の連合軍に白村江の戦で大敗する。

        これを契機に唐や新羅が攻めてくるのではとのことから、律令制のもとで対馬・壱岐・筑紫の九州沿岸   

         防衛のための防人の軍事制度がとられた。

      ❷任期は3年だが延期されることが多く、諸国の軍団から派遣されたものの食糧と兵器は自前で、

                               指揮は大宰府がしていた。

      ❸防人は遠江以東の東国から徴集され、その間は税が免税されることなく農民には重たく過酷なもので

             あった。東国から行くときは「部領史」の人が連れていくものの、帰るときは一人でしかも自費で帰路

       するため、行き倒れになる人も多かった。

      ➍この制度は901~923年頃は有名無実となった。

       また、中国でも辺境防衛のため防人制度は存在している

 

      2.万葉集にみる防人歌の国別内訳

  国名 部領官名 推歌数 没歌数 採録歌数    
  遠江 史生 18 11 7    
  相模 8 5 3    
  駿河 20 10 10    
  上総 19 6 13    
  常陸 大目 17 7 10    
  下総 小目 22 11 11    
  下野 18 7 11    
  信濃 12 9 3    
  上野 大目 12 8 4    
  武蔵 20 8 12    
    166 82 84    

      3.律令制下の農民と義務

  ①年齢別区分

   ⑴税対象者区分  赤色字対象者が税の負担者、他は免除された

      4~16 17~20 21~60 61~65 66~
  緑児 小子 中男 正丁 次丁 老老
  緑子 小女 次女 丁女・年令0~3丁妻  老女 き女 

     ⑵税の内容

  税区分 中男 正丁 次丁
  稲2束2毛 同左 同左
  なし 布2丈2尺 布1丈3尺
    義役なし 義役10日

義役5日

  調 正丁の4分の1

布2丈6尺・絹8丈5寸・糸8両・綿1斤など

正丁の4分の1
  雑徭 30日以下 60日以下 15日以下

     ⑶条里制(当時の土地の測量)

       ●奈良時代は一歩は約1.82mを基本としている

       ●360歩の正方形の面積を1里とした

        つまり、1辺を654m×654mを1里とした

             参考 江戸時代の1里は3.75km 

       ●1里を6つに分け1町歩(1坪)としている、109m×109mが1町歩

       ●1町歩(1坪)を6に分けて一反歩とした、しがって10.9m×10.9mとなる

 


  22「古墳と天皇(大王)・地方豪族との結びつき」 

 

    1.古墳について

    ①古墳という名はなかったのでは、「陵(みささぎ)」とよばれていたのではといわれている

    ➁前方後円墳のルーツは?

     ⑴ 日本独特で各地の寄せ集めでつくられた陵かと言われている。

       生まれたのは大和、なお、韓国の慶州は円墳が多く前方後円墳は見当たらない

          前方部は  出雲の「四隅突出型墳丘墓」

          後円部は  埋葬の中心部である  吉備から大和に伝わったのでは

          埋葬品は  北部九州から豪華なものをすることが伝わっていた

       上述したのが合体して前方後円墳が造られたのではないかといわれている

       更に、日本独特の方形周溝墓(伊勢でみられる)の溝を造った大きい前方後円墳が造られる

      

      ⑵前方後円墳の発祥の地は大和であり、中心となるのは箸墓古墳が卑弥呼の墓ではといわれている

      ⑶江戸時代から前方後円墳と呼ばれるようになった、江戸後期の儒学者の「蒲生君平」が言い始めたと言われている

       それまでは「車塚」と呼ばれていた

    2.墓と大和朝廷

     ①強い王がいたのでははなく豪族の合議により墓はつくられていったのではないかと思われる

      証拠としては、前方後円墳は大和で生まれたが、経過として各地の墳型等の寄せ集めで、もっとも適応していた

      吉備の埋葬方法が入ってきたのがはじめだと思われている

      ※神武が東征する前に、吉備の勢力で物部氏の祖先の「ニギハヤヒの命」の力が大和で神的存在であったと

       いわれている

     ➁何故、前方後円墳が普及したかというと、全国的には大和朝廷を認めるということで5~6世紀まで広まったらしい

      蝦夷・熊襲地域では7~8世紀で中央集権していく過程でのひろまりとなっていった

      なお、沖縄には今のところ古墳はない

    3. 古墳にまつわるエピソード

      下のテキスト拡大参照してください(箸墓の由来他のページ)