上画像は五行思想と関係ある「相撲の土俵」

復習 高齢者学習講座日本の古代史


⑫陰陽五行と旧暦(前)      

1.暦は3つある

 ①太陽暦(太陽が地球を周回する日数の365日と6時間をもとにできた。4年に一回うるう年)

   古代エジプトで始まり→ローマに伝わりユリウス暦→約500年まえからグリゴレオ暦になったといわれている

 ②太陰暦(月の満ち欠けをもとにしている、略して陰暦)イスラム暦が該当する

 ③太陰太陽暦(上記各①②のズレをなくす。陰暦は太陽暦に比べると一年の日数が少ないため三年に一回うるう月を

         いれ13ケ月としている)

  ユダヤ暦が該当する

 

2.太陽暦について

 ①月の公転周期は一周29.3日(約一か月)で一年(12ケ月)は364日、これが太陽暦における一年

  ■イスラム暦は純粋な太陰暦、補正を行わないため毎年11日で始まり約33年で季節が一周する

    ラマダーン

    ビジュラ暦の月名で9月のこと、断食→昼間は飲み食いしてはいけない

    2013年(イスラム暦1434年)は7月20日~8月18日となる

 

 

 ②月の満ち欠けについて  下のテキスト画像を参照してください

  

月の状況 日の出(東) 南の空 月の入り(西)
新月 明け方 日中(昼) 見えない 夕方
上弦 日中(昼) 夕方 真夜中
満月 夕方 真夜中 明け方沈む
下弦 真夜中 明け方 日中(昼)
       

3.旧暦(太陰太陽暦)について

 ①日本は旧暦から現在の新暦(太陽暦であるグリゴレオ暦)に明治6年に移る

  1873年(明治6年)11月9日に明治政府改暦発表

   ⑴明治5年12月3日を明治6年一月一日(新暦)とする→ 官吏の給与削減の狙いもあった

   ⑵一日を十二辰刻制から時間定刻制とする(※ひと時は2時間)

 ②中国の陰陽五行思想が入っている

   ⑴陰陽思想とは

    陽 → 太陽     昼 春 夏 天 男

    陰 → 太陰(月)  夜 秋 冬 地 女

     ⑵五行思想とは

             ➊天地の自然は木火土金水の相性・相克により成り立っている

    区分      概要       季節        方位    時間    色     人生

    木気    樹木の成長する様   春         東     朝     青     出生~青年期 ※青春は木気

    火気    火のような灼熱の性質 夏         南     昼     朱     壮年期

    土気    万物を育成保護    四季の移り変わり  中央          黄色

    金気    金属のように冷徹堅固 秋         西     夕     白     老年  ※白秋は金気 

        水気    生命の泉、母体(胎内)  冬         北     夜     黒     死(やがて再生)   

 

    (参考) 相撲における四房と土俵について →五行思想と関係あり

       青房  東の守護神    青龍神(青い龍)   春

       赤房  南の守護神    朱雀神(赤い鳥)   夏

       白房  西の守護神    白虎神(白い虎)   秋

       黒房  北の守護神    玄武神(黒い亀)   冬

       土俵は中央で黄色

 

    ❷相性と相克

     相性は

        木は火を生む

        火は土を生む 灰

        土は金を生む 金属

        金は水を生む 金属を外気に夜さらすと水滴を生む

        水は木を生む 水がないと草木は育たない

     相克は

        木は土を押しのけ成長する

        火は金属を溶かす

        土は水の流れをせき止める

        金でできた刃物は木を倒す

        水は火を消す

    ❸十干・十二支(えと)

               ■十干

      木火土金水の五気もそれぞれ陽の気と陰の気がある

      それぞれ陽を兄、陰を弟として、五気の強弱をあらわす

      五気をそれぞれ兄弟に別け10に分かれる。これを十干という

     ■十二支

      一年を12ケ月に分けると、それぞれの月を十二支に分ける

     ■十干十二支

      十干と十二支のそれぞれを組み合わせると60とおりの干支ができる

     ■十二支の示す方位図

      下のテキスト画像④を参照してください

 


⑬陰陽五行と旧暦(中)

1.旧暦の年   下のテキスト①~③拡大参照

    「十干と陰陽五行」と「十二支と五行」からの「六十干支」の繰り返しである。 

  ※「還暦」とは60干支が一巡し生まれ年と同じ干支に返ることから来ている

  ※58番目の辛酉(かのととり)が西暦元年にあたる  ←基点になる干支

  ※2013年は30番目の葵巳(みずのとみ)で西暦を60で割ると33余る年である

  ※甲子園球場は1924年にできており西暦を60で割ると4が余る一番目の甲子(きのえね)の年に出来たことから名ずけられている

  ※干支にちなんだ主な歴史的事件

    ⑴壬申の乱   672年   西暦を60で割ると12が余る9番目の壬申(みずのえさる)の年にあたる

    ⑵戊申戦争   1868年      〃     8   〃  5番目の戊申(つちのえたつ)  〃

    ⑶辛亥革命  1911年      〃     51   〃 48番目の辛亥(かのとい)   〃

2.旧暦の月名表示  下のテキスト④拡大参照

  1月  睦月  むつき    子       7月  文月   ふみつき   午

   2月  如月  きさらぎ   丑        8月  葉月   はづき    未

   3月  弥生  やよい    寅        9月  長月   ながつき   申

   4月    卯月  うづき    卯        10月      神無月  かんなづき  酉

  5月     皐月   さつき     辰         11月  霜月   しもつき   戌

      6月  水無月  みなづき   巳          12月   師走   しわす      亥

3.旧暦における時刻表示    下のテキスト⑤拡大参照

    23~1時

九つ   11~13時 九つ  
    1~3時 八つ   午後 13~15時 八つ  
    3~5時 七つ   15~17時 七つ  
    午前 5~7時 六つ   17~19時 六つ  
    7~9時 五つ   19~21時 五つ  
    9~11時 四つ   21~23時 四つ  

  ※ おやつ  一日二食の江戸時代、間食を午後2時前後の「八つ」時にしていたことからきている

  ※ 草木も眠る丑三つ時は夜の2時半

  ※ お江戸日本橋七つ立ちは午前4時ごろ


⑭陰陽五行と旧暦(後)

1,2013年の旧暦の月毎の暦  下の資料画像を拡大し参照

2.旧暦の月の行事について

  ①各月の暦における主な千支と行事と六曜について

  ㋀(睦月)   7日  七草(→自然に はえているのは少ない)

            七草までの正月は、その家には神様がいるため「門松」が神のよりしろとなっている

            人日(じんじつ)とは神の日でなくなった日のことである

        12日  六曜は順番から大安だが赤口(しゃっく)となっている

            ●印は新月の始まりである。旧12月1日

        17日  土用  

          18日   十方ぐれ入り(甲申 きのえさる)

         ㋁(如月)  2日  節分

          3日      立春

        10日  旧㋀元旦  六曜は先勝からとなる

        16日  旧七草(自然にはえて草が手に入る月となる)

        21日  二の午 一粒万倍日

 

       23日  庚申(かのえさる)

   ㋂(弥生)  3日    ひな祭り(→花は少ない)     4月(卯月)  10日 ●旧3月1日 先負

        12日 ●旧㋁1日                     12日   旧ひな祭り(この頃桃の花が咲いている)

        19日 十方ぐれ入り                 17日 土用

        20日 春分の日 彼岸中日                24日 庚申(かのえさる.) 

   5月(皐月) 5日  立夏 端午          6月(水無月)      9日 ●旧5月1日 大安 

        10日  ●旧4月1日                 13日   旧端午

        18日  十方ぐれいり                 21日 夏至

                                                                                                     23日 庚申(かのえさる)

   7月(文月)    7日 七夕              8月(葉月)  7日 立秋 ●旧7月1日

            8日 ●旧6月1日                 13日 旧七夕 星が見られる 仙台・千葉茂原の七夕は有名

          17日 十方ぐれ入り                      22日 庚申(かのえさる) 

          19日 土用       

          22日 土用丑の日

   9月(長月)   5日 ●旧8月1日            10月(神無月)  5日 ●旧9月1日

                                      9日 重陽(ちょうよう) 菊まつり           13日 旧重陽 菊の花がよく見れる

          15日 十方ぐれ入り                   17日 十三夜

          19日 満月 十五夜                   20日 土用

          23日 秋分 彼岸中日                  21日 庚申(かのえさる)

  11月(霜月)   3日 ●旧10月1日            12月(師走)  3日 ●旧11月1日

           7日   立冬                      20日 庚申(かのえさる) 

           14日 十方ぐれ入り                  22日 冬至

 

  ②旧暦の五節句とは

   ⑴ 人日(じんじつ)の節句 旧暦の㋀7日 正月最後の日 七草粥を食べ一年の豊作と無病息災を願う

   ⑵ 桃の節句(ひな祭り)  ㋂3日 桃の花が咲くことから桃の節句ともいう

   ⑶ 端午の節句       ㋄5日 菖蒲の強い香りで厄を払う 菖蒲を軒につるし菖蒲湯にはいる

                 尚武という語句の勇ましさで男の子の誕生と成長を祝う節句でもある

   ⑷ 七夕の節句       7月7日の夕方を意味している

   ⑸ 重陽の節句       9月9日 菊に長寿を祈る日  陽(奇数)が重なる日で奇数の中て最も一番

                   大きい日で重陽という 

  ③干支の「庚申」(かのえさる)とは

    千・支とも金性であることから人の心が冷酷になりやすい日

    三しの虫が体内を出てその人の悪事を神様に告げる日、そのため寝てはならないとされ人々が集まって 

    庚申待(こうしんまち)の風習ができた

  ④行事欄の「十方ぐれ入り」とは

    60干支の中で 第21番目(甲申 きのえさる) ~ 30番目(葵巳 みずのとみ)までの10日間を言い

    千と支の相性が悪いので凶とされています

        21番目  甲申 木金       22 番目 乙酉 水金                   23 番目 丙戊 火木

                  24 番目 丁亥 火水     25 番目 戊子 土水       26 番目   己丑 土土 

        27 番目  庚寅 金木  28 番目   辛卯 金木       29 番目   壬申 水金

        30 番目 葵巳 水火

  ⑤「二の午」とは

    ㋁の最初の午の日をいい稲荷を祀る祭る行事のこと

  ⑥行事欄の「一粒万倍口」とは

    一粒の種が万倍に実り大きな収穫を獲ることができる縁起の良い日

  ⑦行事欄の「二十四節気」について

    詳細は下テキスト資料画像を拡大し参照

    二至  夏至  冬至

    二分  春分  秋分

    四立  立春  立夏  立秋  立冬

    ※ 旧暦では立春の㋁4日から㋀となる

 

  ⑧六曜欄の「六曜の意味と読み方」

    詳細は下テキスト資料画像を拡大し参照

  ⑨「丙午(ひのえうま)」

    どちらも火気で大火となる

    この年生まれの女は気がつよいので嫁にもらうなといわれている 

 

3.旧暦の暦を読むうえでの主な要点

   2013年1月1日の干支は丁卯からで60日の3月1日で一巡、12月31日は幸未、次年1月1日

              は壬申となる行事欄で

   1月17日  土用で土気のはじまりで春めいてくる

              2月4日  「立春」で土用から17~18日目である、前日の2月3日は季節を分ける「節分」である

   3月20日  「春分の日」

         彼岸(亡くなった人の世界である夜)と生きている人の世界の昼がほぼ同じの日

         亡くなった人の向こう岸が三途の川をはさんである。

         いくのには六文銭がいるとか? 春の真っ盛りである

   4月17日  土用で18日目の㋄㏤が立夏、前日の㋄4日は節分だが一年の始まりでないため

         節分と書かれない

    7月19日  土用、2013年7月22日が干支は己丑のため土用丑の日となる

    8月7日   立秋 、前日は節分だが一年の始まりでないため節分と書かれない

   10月20日  土用で18日目の11月7日が立冬、その前日は節分だが一年の始まりでかいため

         節分と書かれない

 

   4.総復習  下のテキスト資料画像を拡大クリックして復習

 

 


⑮万葉集にみる「宮廷歌人」

1.万葉集について

 ①大伴家持が編集(7世紀後半~8世紀後半に編纂)、奈良時代の終わりの光仁天皇の頃に完成か、

  日本に現存する最古の和歌集

 ②4516首の歌で3部立てで全部で20巻

  ⑴雑歌(ぞうか)    日常生活の中で自然を詠む、民の歌や防人の歌も入る

  ⑵相聞(そうもん)   男女のかけあい、恋の歌

  ⑶挽歌(ばんか)    人が亡くなった時の歌

 ③歌の形式

  ⑴長歌  5757、57577が一般的

  ⑵短歌  57577

      ⑶旋頭歌 577、577  繰り返し歌う歌(1877番目1888番目等)

 ④表現形式

   ⑴正述心緒     自分の心を正直に述べる   例  3471番目  しばらくは・・・・・

  ⑵寄物陳思     恋の感情を自然のものに例えて表現   3510番目 み空行く 雲にも・・・

  ⑶比喩歌      自分の思いを物に託して表現      3574番目 小里なる 花椿・・・・

   ⑷詠物歌      季節の風物をよむ

 ⑤最初と最後の歌

  最初の一番目    雄略天皇(5世紀後半)の歌

  最後の4516番目   大伴家持の759年の歌

            ※719~785年、正三位、757年橘奈良磨の変のかかわりで因幡に左遷

 ⑥歌で歴史的背景がうかがえる

 

2.額田王

 ①37代斉明天皇~41代持統天皇期に活躍していた万葉歌人、鏡王の娘

  中大兄皇子(後の38代天智天皇)の弟である大海人皇子(39代弘文天皇を倒し672年の

          壬申の乱の後40代天武天皇)の側室となり十市皇女を産む。

         天武天皇の皇后は護良皇女で後の41代持統天皇である

  十市皇女は天智天皇の子の大友皇子(後の39代弘文天皇)と結婚し葛野王(かどのおう)を産んでいる

  出産後は美人であったことから天智天皇からも愛されたらしい

 ②雑歌「熱田津に 舟乗りせむと 月待てば 潮も かなひぬ 今は漕ぎ出でな」が代表作

    ※山上憶良大夫の「類聚歌林」によると37代斉明天皇を歌った歌である

 ③歴史的背景

   ⑴37代斉明天皇(在位655~661)は女性で35代皇極天皇(在位642~645)と同一人物である

    夫は34代舒明天皇である

   ■女性天皇→ 41代持統天皇 43代元明天皇 44代元正天皇 46代孝謙天皇(48代称徳天皇と同一人)

   ⑵ 639年12月14日   34代舒明天皇(593~641)が伊予の湯の宮に行幸、天皇47歳 

               皇后の宝皇女(後の皇極天皇・斉明天皇)46歳が同伴

 

     660年 百済救援のため西征 

     661年1月6日 斉明天皇は筑紫の国へ向かって難波を出発  →130km

                       1月8日 大伯海(邑久郡)              →170km

                       1月14日 熱田津(道後温泉)             →260km 

         3月25日 女那大津(博多)

  ③ ②の歌は斉明天皇の御船が伊予の道後温泉に泊まった際、舒明天皇との思い出の心境を

            額田王が歌っている。

            したがって、額田王(30歳位?)は同行している。斉明天皇の子である中大兄皇子

           (当時36歳)   も同行している

3.柿本朝臣人麻呂

 ①人麻呂が宮廷歌人として登場するのは持統天皇のころから

 ②製作の最初は草壁皇子挽歌で、692年に息子の軽皇子を歌った歌で有名  

  ■軽皇子とは15歳で即位した42代文武天皇のことである、母は43代元明天皇

   文武天皇の子の首皇子は45代聖武天皇である

 


⑯万葉集にみる「二人の皇子の悲劇」

 1.有馬皇子(640~658 第36代孝徳天皇の皇子)の悲劇

   ①ことのおこり  下テキスト画像「有馬皇子関係日本書記」拡大し参照

 

                    645年   乙巳の変、皇極天皇のとき、中大兄皇子と藤原鎌足が蘇我入鹿を滅ぼす その後、有馬皇子の父である孝徳天皇が即位し大化の改新の詔を発す  
                        ■「大化」は日本で初めて使われた元号  
                    653年 孝徳天皇、難波宮置き去り事件あり    
                    654年 孝徳天皇崩御、この時中大兄皇子は皇太子、しかし・・    
                   

655

年 

中大兄皇子の母の皇極天皇が重そとし「斉明天皇」に    
                    656年 斉明天皇は護飛鳥岡本宮へ遷都    
                    657年 有馬皇子が偽りの病気静養のためムロノ温湯へ行く (現在の和歌山県の白浜温泉)  
                      帰ってきて斉明天皇に体が良くなったと報告    
                    658年 斉明天皇ムロノ湯へ行幸    
                      11月3日 天皇留守中、蘇我赤児が有馬皇子へ政治

の失敗三ケ条を訴えると有馬皇子は謀反を計画

 
                      11月5日 有馬皇子は蘇我赤児の邸宅に出向き謀議 するも帰宅したところ赤児に裏切られ囲まれる  
                      11月9日 有馬皇子は捕えられ、ムロノ湯で中大兄 皇子の尋問を受ける  
                      11月11日 有馬皇子19歳 藤白坂で絞首刑となる     

                  ②有馬皇子の歌    

       141番目  「磐代の 浜松が枝を 引き結び ま幸くあらば  またかへりみむ」

       142番目  「家にあれば  筍に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る」

  

 2.大津皇子(663-686 第40代天武天皇の皇子、母は38代天智天皇皇女の大田皇女 )の悲劇

   ①時代背景  下テキスト画像「大津皇子関係日本書記」拡大し参照

    時代体制 西暦

出来事

 
    斉明天皇 661年  百済救援のため西征  
        大伯皇女出産(母は大田皇女)  
       

7月斉明天皇崩御(九州筑紫朝倉宮於)

 
    中大兄皇子体制 662年 草壁皇子出産(母は鵜野皇女)  
        大津皇子(母は大田皇女)  
        日本軍は唐・新羅軍に大敗(白村江の戦)  
    天智天皇 667年 天智天皇即位(近江大津京遷都)  
        大田皇女亡くなる(子の大伯皇女5歳、大津皇子7歳)  
        大津皇子は天智天皇から可愛がられる  
      671年12月 天智天皇崩御  
    天武天皇 672年 壬申の乱  天武天皇即位(飛鳥浄御原)  
      674年

大伯皇女伊勢の斎宮となる

 
      686年9月9日 天武天皇崩御  
    持統体制 686年10月2日 大津皇子は親友の川島皇子の密告により謀反発覚、大津皇子処刑(自害 )  
      689年 草壁皇子亡くなる 28歳  
           
  大津皇子の相聞歌・挽歌 下テキスト参照    

⑰万葉集にみる「処女伝説」

 1.万葉集にみる「桜児伝説」と「かずら児伝説」

  ①桜児(さくらこ)

   ⑴二人の男性に結婚を申し込まれ、二人が争うのを悲しんで桜児という処女は林の中に入って首をくくった

   ⑵この二人の男性は処女の「桜児」の死を悼んで一首づつ歌を詠んだ

      3786番目 「春さらば かざしにせむと 我が思いし 桜の花は 散り行けるかも」

      3787番目 「妹が名に かけたる桜 花咲かば 常にや恋ひむ いや年のはに」

             ※妹とは「恋人」の意味

      ■桜児は「巫女」?

       桜は日本が農耕民族であるということの神話から由来していると考えられる

       花を愛でる風習は、梅は奈良時代、桜は平安時代である

       「さ」は稲穂の神霊の意味、「くら」は神のよりしろの意味

       田植えは神事(田植えする乙女は早乙女、早少女、五月女という)

                     「さ庭」とは神が降臨する場をいう

      「泥かけまつり」の行事がのこっているが、豊作を祝うお祭りで泥をかけることで神が

        よりつくといわれている 

  ②かずら児

    ⑴3人の男に愛され思い悩み大和耳無山のふもとの池に入水した処女「かずら児」の伝説

   ⑵3人の男は限りない悲しみに耐えきれず、めいめいが処女への思いを歌にした

     3788番目  「耳無の 池しうらめし 我が妹子が 来つつ潜かば 水は溺れなむ」

               3789番目  「あしひきの 山かずらの児 今日行くと 我に告げせば 帰り来ましを」 

              3790番目  「あいひきの 山かずらの児 今日のごと いずれの隅を 見つつ来にけむ」

       ■「かずら」について

         かずらは生命力をあらわし頭にさしていた。その後なまって「かつら」となった

         古事記の倭建命の下記の思国歌は生命力を歌っている

         「倭は国のまほろば たたなずく青垣山隠れる 倭し美し」

          「命の全けむ人はたたみこも 平群の山の 熊かしの葉を うずにきせ その子」

 2.「ウナヒ処女伝説」 

  芦屋のウナヒというところに美しい処女がいた。家は貧しかったが心はとても優しかった。

    男たちは当然ほうってはいなかったが彼女は首をたてに振らなかった。

    ②ところが和泉という他国から海を渡ってきた男が処女に惚れ込んだ。処女もその男をにくからず

    思うようになった。しかし、他国から来た男との結婚は禁じられていた。

    ③ウナヒの男と他国からきた男は命がけで処女をめとるのを争ったので、処女はあの世で二人を待つと

    言い残して海に身を投じた

    ④その夜、他国からきた男は夢で入水する処女の姿がでてきたのをみた。そして、男は後を追って海に消えた

    その話を聞いたウナヒの男は遅れをとったとし、処女への恋しさと己の誇りを守るため二人の後を追って

    入水した

   ⑤万葉集にみる歌

    ⑴処女の墓に立ち寄った時に作った歌  1801番目の歌 1802と1803番目の歌は返歌

    ⑵処女の墓を見た時の歌        1809番目の歌 1810番目の歌は返歌

    ⑶処女の墓の歌に追和したした歌    4211番目の歌

 

 3.「手児名伝説」

 ①伝説❶

  ⑴現在の千葉県市川市の真間に「手児名」という麻の服をまとい髪は櫛も通さず靴もはかないで井戸水くみ

   をしていたが集まる人の中でも目立って美しい娘だった。

   ⑵都の着飾った娘より清く美しく満月のような豊かな顔で花のような微笑の持ち主で男たちの視線の的で

    結婚を求めるのが、夏の虫が灯りに集まるように、港に入る先を争う船のようだった

   ⑶手児名を思い病気になる男や兄弟が醜い争いをしているため、彼女は「自分が生きていたら他人を不幸に

    する」と考え、真間の井戸があふれて流れる小川沿いに進み海に入って行った

 ②伝説❷

   ⑴近隣国に嫁いだが、嫁ぎ先の国との間に争いが起こり逆恨みされたため苦難の末に真間に

    戻った、しかし、運命を恥じて実家に帰らず子を育てつつ暮らした

   ⑵手児名を巡って男たちは再び争いを起こしたため、これを嫌がって真間の入り江で入水  

    したと言われている

 ③市川の亀井院には手児名が水くみをしていたとされる井戸が現存する

 ④万葉集にみる歌

   葛飾の真間の娘子を詠んだ歌  1807番目の歌  1808番目の歌は反歌

    山辺赤人の歌だが処女伝説とは思っていない  431,432,433番目の歌

 4.日本書紀(雄略天皇記)、「大和物語」の第百五十段より 下テキスト画像参照

 


⑱万葉集にみる「山上憶良・大伴旅人(1)」

1.「山上憶良・大伴旅人」の時代背景

 ①大化の改新の詔 645年 四つの基本方針 律令国家の出発点

  ⑴公地公民 土地・人民はすべて国家のものとする

        天皇の領地(屯倉)とその人民及び豪族及びその民の両地制廃止

  ⑵中央に都をおき、地方を国・郡・里に分けて国司・郡司・里長を置く

   郡と地方の連絡のため駅馬・伝馬を置き重要なところに関所・防人を置く

  ⑶「班田収授法」を定めて、人民に口分田を分け与える。

   そのため、「戸籍」と税をとるための「計帳」をつくる

   政府→6年毎に戸籍をもとに6歳以上の男女に口分田(班田)

      農民 良民の男子は⒉段(約23a) 女子はその3分の2

         家人・奴婢は農民の3分の1

      義務 税などいろいろな義務

         死ぬと口分田返還(収受)

      ■人民の区分け

       良民 ・・・「皇族」「貴族」「一般農民(口分田農民・品部・雑戸)」 計約90%

         賤民 ・・・「陵戸」「官戸」「家人」「公奴婢」「私奴婢」

   ⑷税制をつくる 「祖・庸・調」とする

     ❶税対象者区分   赤字対象者が税の負担者で他は免除された

      性別   年齢  0~3    4~16      17~20    21~60      61~65      66~

      男        緑児  小子   中男   正丁   次丁  き老

      女        緑子  小女   次女 丁女・丁妻  老女  き女

     ❷税の内容

                中男          正丁         次丁

              稲2束2毛           同左          同左

               ナシ          布2丈6尺       布1丈3尺

                義役ナシ        義役10日         義役5日

         調     正丁の2の1               布2丈6尺・絹8丈5寸        正丁の4分の1

                         糸8両  縄1斤

         雑揺    30 日以下                        60 日以下                    15日以下

            ❸当時の土地の計量

       ①奈良時代は一歩は約1.82mを基本としている

       ➁360歩の正方形の面積を一里とした。つまり、一辺が654m×654mを一里とした

           参考 江戸時代の一里は3.75m

                       ③一里を6つに分けると一坪(一町歩)としている、109m×109mが一町歩

       一坪(1町歩)を10に分けて一反歩とした、したがって10.9m×10.9mとなる

     ➍当時の一反歩での米の収量

        上田   50束(1束3kgの米)  3kg×50束は150kgの米

        中田   40束              120kgの米

        下田   30束               90kgの米

        下下田  15束               45kgの米

                     (参考)

         ①遠地口分田のことを万葉集でみられる

           「春がすみ たなびく田井に いほりつきて 秋田刈るまで 思はしむらく」

            一日がかりの出たり入ったりの良くない土地をもらっている歌である

          ➁上田の収穫金額を平成の時代の米価に換算すると60000円(150kg×@400)

           なお、平成の現代では一反当たり480kg程度以上の米収穫の生産ができている

    ❺位階と年収    平成の現代の米価をもとに算定

       位階     代表的な人   その人の暮らしぶり          年収試算

      一位(正・従)  藤原仲麻呂(太政大臣)    公卿                   3億7455万円

      二位(正・従)  長屋王(左大臣)       公卿、鶴を飼育。氷室所有   1億2484万円

      三位(正・従)  大伴家持(大納言)      公卿                      7490万円

      正四位(上・下)                  貴族                                                                  4119万円

      従四位     太安万侶(古事記編纂)       貴族                                                                 3506万円

      正五位                    貴族                  2801万円 

      従五位     山上憶良(万葉集歌人)      貴族                          1500万円

      正六位                                       704万円 

      従六位                                       616万円

     正七位                                       493万円

      従七位                                       394万円

      正八位                                        355万円

      従八位                                        318万円

      大初位                                        256万円

      少初位                                        230万円 

         ❻その他

      冠位12階をつくる

      647年 冠位は13階

      649年 冠位は19階へと増やす

          大化の簿葬令を出す、殉死を禁止

②崩れ始める公地公民制(日本書記より)

    ⑴723年 三世一身の法

      新しく開墾した人は三世まで使える

      新しく開墾したところは一代(一身)まで良い

    ⑵743年 墾田永年私財法

  ⑶ ⑵のあと、だんだん荘園となっていく 

 

 


⑲万葉集にみる「山上憶良・大伴旅人(2)」

 2. 山上憶良と大伴旅人の歌  → 二人を「筑紫歌壇」という

 ①山上憶良

   660~733年の奈良時代の貴族歌人、従五位下、子供思い・家族思いの人

 ②大伴旅人

    665~731年の同奈良時代の貴族歌人、従二位、大納言、大納言大伴安麻呂の子 酒をこよなく愛した 

     万葉集に76首の歌掲載

3.歌の作の年代

    726年  山上憶良67歳は筑前国守となる

    727年  大伴旅人63歳は大宰師(長官)となる

    728年  大伴旅人の妻「大伴郎女」大宰府の地で死す

         大伴旅人の弟「大伴宿奈麻呂(坂上郎女の夫)」の死

         大伴旅人  793、798、799番目の歌

         大伴旅人「妻を思いて恋うる歌」 438~440番目の歌

         山上憶良「͡子等を思う歌」 802~803番目の歌

    729年  長屋王事件(奈良時代前半のクーデター)

         山上憶良の「宴をまかる歌」一首 337番目の歌

         大伴旅人の「酒をのむる歌」13首 338~350番目の歌

    730年 梅花の宴

         山上憶良の818番目の歌

         大伴旅人の822番目の歌

         この年の暮ごろ大伴旅人が帰京する、帰路の途中に作った「妻を偲ぶ歌」5首446~450番目の歌

    731年 大伴旅人、帰京後「故人を思いこうる歌」3首451~453番目の歌

        7月 大伴旅人死す67

        山上憶良「貧窮問答歌」をつくる 892~893番目の歌

        この年の暮ごろ山上憶良は帰京する

    733年 山上憶良死す74歳