順次 復習しながら作成していきますので中途半端となっていますがご了承ください
復習 高齢者学習講座 日本の古代史
1.「教育に関する勅語」は1890年(明治23年)に発表された
2.日中戦争突入時の昭和16年にそれまでの尋常小学校が国民学校となった。教育の中では「終身」「国語」「歴史」
「地理」が重視され上記の勅語の皇国の使命に対する自覚を高揚させることが時代の要請であった。
3.昭和18年の国史の教科書では「神国」から始まり「昭和の大御代」までの構成となっており神武天皇が即位された年を
紀元年としている。旧暦ではBC660年1月1日となるが新暦ではADの2月11日である。
教科書の中では歴代と天皇と年表も記されている。
4.戦前では紀元節や天長節(天皇誕生日)のおり、「教育に関する勅語」を必ず学校等で唱和していた。
1.人類誕生は地球誕生にあてると一年のうち12月31日の16時30分からである
2.人間は直立する類人猿から「現代人」までの間、脳の容積はふえてきている
3.人類の祖先の猿人はアフリカで約200万年前である
4.人類の移動
アフリカから20万年前→中東.南アジア6~7万年前→東南アジア5~6万年前→オーストラリア5万年前
→シベリア4万年前
■ ヨーロッパは4~5万年前
■ 日本列島には4~5万年前 北方ルートと朝鮮半島ルートと南方ルートから来た
5.日本人は下記二つのルートにわけられる
①北と朝鮮半島から来た「新モンゴロイド」
一重まぶた 目が細い 鼻低い のっぺり顔 ひげ体毛薄い 背比較的高い
耳垢かわいている 短足胴長
朝鮮半島・中国北部・北東アジア・北東シベリアに多い
弥生人タイプ
②南から来た「古モンゴロイド」
二重まぶた 目が大 四角ばった顔 ひげ体毛濃ゆい 背比較的低い
耳あかが湿っぽい
中国南部・東南アジア・北太平洋諸島に多い
縄文人タイプ
6.日本に人が住むようになった時代は
戦前の説
説1 旧石器時代は(1)ウルム氷河期で今より気温が10度C低く動植物が少ない(2)活発な火山活動で酸性土壌のため
骨がのこりにくい等のため人は住んでいなかった。
説2 縄文時代から気候温暖化や火山活動が休息化したため日本列島に人が住むようになった
戦後の説
旧石器時代には人はすでに住んでいたと判明
昭和6年 明石原人の発見 直原信夫
昭和24年 岩宿の遺跡で黒曜石発見 相沢忠洋
7.日本人の起源
①日本人交替説 縄文人(古モンゴロイド)は弥生人(新モンゴロイド)により征服されて日本列島からおわれて北海道や沖縄
に逃れた
②人種混血説 あとから来た弥生人が縄文人と混血
③変形説 時代や環境によって今の日本人の姿となった
④二重構造説 文化が共存しており縄文人も弥生人も同居していた、今でも各人そのモンゴロイドの特徴を持っている。
これが現在の一般的な考えとなっている
1.ウルム氷河期が終わって地球があたたかになってきたのが1万2千年前、海面が100mぐらい高くなり日本列島が大陸から
切り離された
2.縄文時代(新石器時代) 約1万年間続いた
①縄文早創期(BC10000~8000) 竪穴式住居出現 尖底土器出現
②縄文早期(BC8000~4000) 平底土器 丸木船 小型の土偶 血縁者によるちいさな集落生まれる
③縄文前期(BC4000~3000) 気候温暖化で食糧豊富になる 縄文海進(海面上昇) 貝塚出現 勾玉・管玉などの装飾品出現
④縄文中期(BC3000~2000) 縄文時代の全盛期
人口最高(東日本地区→青森県の三内丸山遺跡は500人規模で約1500年間続いた大集落)
貝塚が各地にできる 抜歯・研歯の風習 離れ杜
⑤縄文後期(BC2000~1000) 目的に応じた土器がつくられる 土偶・抜歯の風習が全国的に広まる
ストーンサークル かめ墳墓
⑥縄文晩期(BC1000~300) 気候が寒冷になる 食糧がへり人口が減少する 稲作が西日本に伝来する
3.弥生時代(BC300~紀元6世紀) 詳細下記テキスト参照
4.縄文人と弥生人
①縄文人 古モンゴロイド系 狩猟 採集 漁労 採集(海浜での貝)
②弥生人 新モンゴロイド系 農耕 採集 狩猟 漁労 戦争をしていた
5.全国の人口推計
縄文中期(4300年前) 261,300人 縄文期の中で最大の人口数 東日本に集中
弥生時代(1900年前) 594,400人 西日本が東日本より多い
8世紀(1300年前) 5,399,800人 更に西日本が東日本より多い
1.三国志(呉̪志、蜀志、魏志)の中での魏志倭人伝の位置づけ
①魏志の中は烏丸(ウガシ)伝と鮮卑伝と東夷伝の三つがあり、その東夷伝の中での「倭人条」で書かれている
東夷伝では扶余・高句麗・ヒガシヨクソ・ユウロウ・ワイ・韓(馬韓=百済、弁韓=加羅、辰韓=新羅)と倭の
七つの民族のことが書かれている
②2世紀終わりから3世紀前半の時代にあたり日本では弥生時代の終わりにあたる
2.弥生時代 中後期 BC300~
紀元前後 このころ倭人は100余国に分かれ漢に朝貢するものあり ( 漢書の地理書に記載あり)
AD57 倭の奴国王が後漢に朝貢「漢倭奴国王」の金印を授かる (後漢書の東夷伝に記載あり)
AD107 倭国王ら後漢に生口160人を貢上 ( 〃 )
2世紀後半 倭国大乱(国々が戦いし長い間盟主が定まらず) ( 〃 )
189 卑弥呼が邪馬台国の女王になる(以後内乱がおさまる) 以下「魏志倭人伝」による
239(景初3年)邪馬台国の卑弥呼魏に朝貢(銅鏡100枚「親魏倭王」授かる)
247 邪馬台国が狗奴国と交戦
248 卑弥呼死す(大きな家を作る)
宗女 台与13 才 王となる 乱やむ
3.邪馬台国百年論争
①1919年 白鳥氏(東大)
帯方郡(現在のソウル)から不弥国までの里数に注目
熊本県菊池市あたりの山門を邪馬台国と考えた
内藤氏(京大)
不弥国から投馬への方面が「南」となっているのは誤りで「東」が正しいのではないかと論じている
投馬国は山口県あたりで邪馬台国は大和である
二者間の論争がきっかけでほぼ一貫して東大が邪馬台国九州説を京大が近畿説を主張している
②著名人等の邪馬台国説
大和説 日本書記 北畠親房 新井白石 伴信友他
九州説 本居宣長 松本清張他
1.古墳時代は3世紀後半から7世紀、4世紀は中国の史書にも倭国の記録がなく謎が多い
2. ■古墳時代前期 前方後円墳がつくられる。3世紀後半から4世紀 分布 形態と内部構造 副葬品・埴輪
248 女王卑弥呼の死 150m位の墓 畿内・瀬戸内 円墳 方墳 勾玉
300 大和・瀬戸内地方に前方後円墳 (台地・丘陵地) 前方後円墳 司祭・呪術的円筒埴輪
大王の力強まる 竪穴式石室
■古墳時代中期 巨大古墳造られる 5世紀 (大阪平野~全国) 巨大前方後円墳 甲冑・馬具等の軍事的な形象埴輪
400 応神・仁徳天皇陵 (平野部) 横穴室石室出現
420~450 各地に巨大古墳が造られる
527 九州に岩戸山古墳ができる
■古墳時代後期 古墳づくりが衰える 6世紀~7世紀末 全国に分布 小規模古墳 銅製の武具馬具
6世紀はじめ 横穴式玄室噴石 (山麓や山間まで) 装飾壁画古墳 土師器・須恵器
6世紀中頃 北部九州に玄室彩色壁画増える 群集墳 畿内で埴輪衰退
7世紀初め 古墳づくりが減り始める
有力豪族は大きな寺院を造り勢力を示そうとする
626 蘇我馬子の墓(石舞台古墳)できる
648 大化の改新で「簿葬令」が出される(墳墓の大きさ等規制)
3.渡来人
①4~5世紀 楽浪郡・帯方郡からの漢人(畿内) 貢献→技術者集団として品部に、古墳文化の形成に寄与
主な渡来人 弓月君(秦氏の祖)は応神天皇のとき渡来→養蚕・機織り
阿知使主(東漢氏の祖)応神天皇のとき→文筆に優れて史部を管理
王仁(西文の祖)百済より論語・千字文を伝える 文筆・出納の仕事に従事
②6~7世紀 韓民族の王族・文化人・技術者が東国へ 貢献→学問・仏教・歴史・医術など飛鳥文化に寄与
主な渡来人 五経博士 継体天皇のとき百済より易経・写経・書経。春秋・礼記を伝える
司馬達等(しばたつとう)中国より渡来し仏教を伝える、易・歴・医博士で欽明天皇の時に渡来
観勒 百済より渡来
曇微(うんび)高句麗より渡来 絵具・紙・墨などの製法を伝えた
4.大和朝廷の仕組みと姓
①大王が天皇と呼ばれるようになったのは聖徳太子のころからか
②大臣(蘇我氏等)大連(物部氏・大伴氏等)は中央の豪族
国造は地方豪族
伴造・品部は技術者集団
屯倉は王室直轄地、 田荘は地方豪族の私有地をいう
5.倭の5王(讃、珍、済、興、武) 5世紀の東アジア 宋書倭人伝に記載
①倭の各5王だれもが宋(南朝)に朝貢して肩書をもらっていたのは、朝鮮半島での倭国の活動に対して
お墨付きをもらうためと思われる
②高句麗好太王碑にも倭国と朝鮮との関係がみられ、倭国が朝鮮半島を攻めてきていることが記されている。
これは朝鮮半島に「任那の日本府」があったためかと思われる
又、478年史から朝貢でもらった肩書の内容等は朝鮮半島での活動のためどうしても必要だったのではと思われる
③なお、高句麗との敗戦後「任那の日本府」が引上げて倭の地にかえり「大和朝廷」を造ったことを天孫降臨と結び
付けた神話説あり
6.鉄剣銘
①石上神宮の七支刀 奈良県 神功皇后が新羅征伐のとき百済王からもらったと日本書記に記載
②稲荷山古墳出土の鉄剣 埼玉県 「ワカタケルの大王」の文字が鉄剣に明記
③江田船山古墳出土の鉄刀 熊本県 刀の解読不明の3文字は「加多支」があたはまり「ワカタケル」であると判明
④ワカタケルとは 日本書紀・古事記から「雄略天皇」であり、倭の5王の「武」にあたることがわかっている
従って、「興」は安康天皇、「済」は允恭天皇、「珍」は反正天皇、「讃」は仁徳天皇か
応神天皇ではないかといわれている
⑤結論 倭の5王の「武」(雄略天皇)の時代は、少なくとも北は「関東埼玉」南は
「九州熊本」まで大和朝廷の勢力があったことが証明される