上画像は日本一の前方後円墳の仁徳天皇陵(大仙古墳)


高齢者講座の復習「日本の古代史」古事記 下巻


57             第16代 仁徳天皇 

                         83歳死亡                         

内容 テキスト資料 あらすじ・特記
 1  后妃・御子と御名代  1~2

大雀命(オオサギノミコト、仁徳天皇)は難波の高津宮にて天下を治めた

❷皇后は葛城氏の娘の石之日で四人の子供をもうけ、履中・反正・允恭

 の三人が歴代天皇となる。また、嫉妬深い妻でもあったが万葉集の一番

 古い作者で歌がうまかったと評価されている

日向の髪長比売とも結婚され二人の子あり

➍系図は参考資料のとおりである

2  聖帝の御世  2

❶天皇は高い山に登り国見をし炊煙が立っていなく人民が貧しいので三年間

 租税と夫役の免除を命じ、自らの宮殿も修理せず雨漏り場所を避けた。

 その後、炊煙が一面に立った時に課税を再開した

❷こうしたことで、人民は繁栄し夫役に苦しむことがなかったため聖帝の

 御世と褒め讃えた 

3

妬 み深き石之日売皇后

と吉備の黒日売

 3~4

❶天皇は吉備の黒日売が美しいと聞き、宮中に召し上げお使いになったが、

 嫉妬深い皇后を恐れて、彼女は船で吉備に逃げ帰った

❷天皇は船出していくのをはるかに望まれて、恋しさの歌を詠まれた

❸皇后は子の歌を聞き、人を遣わし帰路の黒日売を船から降ろさせ、陸路で

 徒歩で行くようにして追い返した

➍天皇は皇后をだまし淡路島に行きたいとして、それから吉備に会いに行き

 彼女と食事をともにした。その折の青菜つみの時の歌を相互に歌っている

4  石之日売皇后の嫉妬  5~7

❶皇后は新嘗祭の酒宴の盃にする御綱柏をとりに紀伊国に出かけた

❷その時に天皇は異母妹の八田若郎女と結婚した

❸皇后は御綱柏を満載にして帰る時、人足を通じ皇后に仕える舎人女から

 このことを聞き、恨み怒り荷を海に投げ込み、皇居の高津宮にには戻らず

 奈良山の入口まで行って戻り、山城国の韓人のヌリノミの家に滞在した

➍天皇は鳥山という舎人を遣わし歌を贈った

5  筒木宮の石之日売皇后  8~10

❶そこで口子臣は皇后のもとに参上して歌をわたそうと、雨の中で平伏し

 て会おうとしたが皇后は会うのを嫌がった

❷口子臣の雨にうたれた状況を皇后は自分に仕える彼の妹の口比売から歌

 を通じて兄と知る

❸口子臣と妹とヌリノミの三人は相談して「皇后がここに来た理由は三様

 に変わる虫をご覧になるためであり、変な心があるためではない」と

 天皇らに奉上した

➍天皇は自分もみたいと出向き、ヌリノミは三様に変わる虫を献上した

❺天皇はその後も、八田若郎女を慕い御名代として彼女を定めた。

 だが、彼女との間には子供は出来なかった

6 速総別王と女鳥王  10~12

❶天皇は弟の速総別王を仲人として異母妹「女鳥王」を所望

❷彼女は速総別王に向かって「皇后の気性が激しく八田若郎女も妃として

 迎えていないのでお仕えしません、あなたの妻になります」といい

 二人は結ばれた。彼は仲人としての復命を奉上しなかった

❸天皇は彼女のところへ行ったとき機織りしながらの彼女と速総別王との

 関係と謀反を知ったため軍勢を集め、奈良の宇陀の地まで二人を追い詰

 め殺した

➍この時、天皇側の将軍が女鳥王の腕輪を剥ぎ取り自分の妻に与えた

 この後、宮中での酒宴の折、皇后が氏族の女たちに盃を与える際に、

 この妻の腕輪にきずいて退席させ、その夫を呼び「死んで間もないのに

 剥ぎ取って己の妻にやるとは」と言い、彼は死刑に処された

7  雁の卵  13

❶仁徳天皇が酒宴を催すため日女島にでかけられたところ雁が卵を産ん

 でいた 

❷天皇は建内宿禰を呼び歌で有様を尋ねた

❸建内宿禰は歌により返事を申し上げ、琴を賜って、歌を歌った

 この歌は「寿歌(ほきうた)の片歌」という歌である

8  枯野という名の船  14

仁徳天皇の御世に和泉国に一本の高木があり、その木で船を造ったら

 非常に速く走る船のため名付けて枯野といった

❷船は淡路島の清水を毎日くんで御飲料として天皇に献上

❸その船が壊れたので廃材で塩を焼き、その焼け残った木で琴を作った

 ところ音が遠く七村まで響き渡った

テキスト資料

仁徳天皇ゆかりの地 現地探訪  仁徳天皇陵(大仙古墳)  

                   大阪府堺市堺区大仙町     2018年10月16日探訪


58             第17代 履中天皇 

                         64歳没                         

内容 資料 あらすじ・特記
 1  后と御子  1

❶仁徳天皇の御子「イザホワケノミコト」が履中天皇として天下

 を治めた

❷履中天皇は黒比売命と結婚し「市辺之忍歯王」「御馬王」「飯

 豊郎女」をもうけた

2

 墨江中主(すみえのなかっみこと)の反乱

 1~3

❶履中天皇が難波宮での新嘗祭の酒宴の折、酔って寝ていた時、

 弟の墨江中主は天皇を殺そうと御殿に火をつけた

❷この時、阿知直が寝ている天皇を馬に乗せて大和へ連れ申し、

 河内の丹比野に到着したところ、天皇は目覚め「ここはどこだ」

 と場所を尋られた

❸阿知直は「弟君が火をつけ大和へ逃げるところ」と申し上げた

 そして、天皇は歌を二つ詠まれた

➍大坂の山の入口に来た時、出会った女から「武器をもって大勢

 の人がこの山をふさいでいるので当麻道を迂回して越えた方が

 良い」と教えてもらって大和の石上神宮に入られた。

3  隼人の曽婆加理(そばかり)  4~6

 ❶石上神宮に入られた履中天皇のもとへ同母の弟「水歯別命(次の

 反正天皇)」が人を介して拝謁したいと申し入れた

❷履中天皇は、墨江中主と心をあわせているのではと疑念を持ち、

 「を殺して戻ってきたら必ず水歯別命に会おう」と仰せにな

 った

❸水歯別命はすぐに難波に戻り、墨江中主の近くに仕えている隼

 人の「曽婆加理」という者をだまして、自分が天皇になった時は

 大臣にしてやると言い、忠誠を誓ったので数多くの品物を与え

 た。

 そして、「主人の墨江中主を殺せ」と命じ、曽婆加理は墨江中主

 が厠に入るのを伺って矛で刺し殺した

➍水歯別命が曽婆加理を連れて大和へ帰る途中、大坂の山の入口

 で急に酒宴の場を設け、約束通りに大臣の位を授けたため曽婆

 加理は歓喜し勧められた大盃で酒を飲む時に顔が覆われた、

 その時に、水歯別命は隠していた剣で曽婆加理の首を切った

❺そして、石上神宮に参上して、天皇に向かい、人を介して「墨

 江中主討伐ことは、すっかり平定し終えて参上しました」と奏

 上し、天皇ぱ彼を中に呼び入られともに語られた。  

テキスト資料

履中天皇ゆかりの地 現地探訪  履中天皇陵(上石津ミサンザイ古墳)  

                   大阪府堺市西区石津ケ丘     2018年10月16日探訪


59             第18代 反正天皇 

                         60歳死亡                         

内容 あらすじ・特記
 反正天皇

❶履中天皇の弟の水歯別命(反正天皇)で河内国丹比の紫垣宮で天下を治めた

❷身長が九尺二寸半、歯の長さ一寸、広さ二分のみごとな歯並び

テキスト資料

反正天皇ゆかりの地 現地探訪  反正天皇陵(田出井山古墳)  

                   大阪府堺市境区北三国ケ丘2丁     2018年10月16日探訪


60             第19代 允恭天皇 

                         78歳死亡

                         9人の御子をもうけ、子の雄略天皇即位までの筋書きと

      その発端の木梨軽王の密通事件が記載されている

 

内容 資料 あらすじ・特記
 1 后妃と御子  1~2

❶反正天皇の弟の男浅津間若子宿禰王(允恭天皇)は遠飛鳥宮で天下を治められた

❷忍坂之大中津比売命と結婚し9人の御子(皇子5人・皇女4人)を設けた

  ⑴木梨之軽王

  ⑵長田大郎女(大日下王の正妻、安康天皇の皇后)

  ⑶境之黒日子王

  ⑷穴穂命(第20代安康天皇)

  ⑸軽大郎女(別名 衣通部女)

  ⑹八瓜之白日子王

  ⑺大長谷命(第21代雄略天皇)

  ⑻橘大郎女

  ⑼酒見郎女

2  即位と氏姓の正定  2

❶允恭天皇は皇位を継ぐ時、病気がちのため辞退したかったが、周囲が

 強く即位を勧めたので即位して天下を治めた

❷この時、新羅王が81隻の貢ぎ物を載せた船を献上した。この時の大使の

 「金波鎮漢紀武」は薬の処方にも通じており天皇の病気を治した

❸天皇は国中の人々の氏と姓が乱れ誤っているのを憂慮して、飛鳥の甘樫丘

 の社前で国中の部族長の氏姓の真偽を定めた

3  軽王と軽大郎女  3~6

❶允恭天皇が亡くなって皇太子の木梨軽王が皇位につくことが決まっていた

 ものの、同母妹の軽大郎女との密通事件で朝廷に仕える官人や国民は軽王

 に背いて、穴穂御子の方に心を寄せてしまった

❷軽王はこのことを恐れて、大前小前宿禰大臣の家に逃げ込み武器をつくって

 備えた

穴穂御子は軍勢を発し、その家を包囲して、門に着いた時は氷雨がひどく

 降ってきた

➍すると、大前小前宿禰大臣が歌いながら穴穂御子の前に立ち「兄君に兵を

 差し向けたら世間の者は兄弟の道にも劣るとそしり笑うので私が捕えて

 身柄を渡しましょう」と申し上げた

❺穴穂御子は包囲をとき、軽王の身柄は引き渡され捕えられて、伊予の

 道後温泉へ流刑された

❻軽王が伊予へ旅立った後、軽大郎女は恋い慕う思いに耐えかねて、あとを

 追い、二人一緒に命を絶たれた

テキスト資料

日本書紀に見る「木梨之軽皇子と軽大郎女と道ならぬ恋」 

 

❶允恭天皇ゆかりの地 現地探訪  允恭天皇陵(市の山古墳)  

                   大阪府藤井寺市国府一丁目     2018年10月17日探訪

❷允恭天皇ゆかりの地 現地探訪  甘樫丘(あまかしのおか)  

                   奈良県高市郡明日香村大字豊浦788   2015年(平成27年)9月30日探訪


61             第20代 安康天皇 

                         56歳で殺される

 

内容 資料 あらすじ・特記
 1  ,根臣の陰謀と大日下王(オオクサカオウ)

 1

 

 ❶允恭天皇の御子穴穂御子(安康天皇)は石上の穴穂宮で天

 下を 治めた

❷天皇は同母弟の大長谷命(後の雄略天皇)を結婚させるた

 め天皇の叔父にあたる大日下王のところに根臣を遣わ

 妹若日下王を差し出すように伝えさせた

❸大日下王は大事にしていた妹を勅令に従って差し出す返

 事をするとともに妹からの贈り物として玉鬘の冠をもた

 せて献上した

➍ところが、根臣は冠を横取りして「大日下王は勅命を受

 けず妹を同族の下敷きなどにならせない太刀をとってお

 怒りになったと奏上した

❺そこで天皇はひどく恨んで大日下王を殺し王の正妻の長

 田郎女を奪い皇后にした

 

2  目弱王(マヨワノミコ)の復仇と大長谷王

 2~5

 

 

 ❶皇后(長田郎女)と先夫の大日下王との間に生まれた子の

 目弱王は当年七歳であった

❷天皇が皇后に向かって「目弱王が成人したとき、自分が

 父の大日下王をころしたことを知ったら反逆心をおこす

 のでは」の会話聞いてしまい、目弱王は天皇がお休みに

 なっているすきを伺って、そばの太刀で天皇の首を討ち

 切って都夫良意富美(ツブラオオミ)の家に逃げ込んだ

❸この変事を聞いた大長谷命は当時まだ少年であったが、

 ひどく立腹して恨み怒って、兄の黒日子王のところへ行

 ったが、兄は驚きもせず気にもしない心であったので、

 ののしって襟首をつかみ太刀を抜いてうち殺した

➍また、次の兄の日子王のところへ行っても黒日子王と

 同様だったので襟首をつかんで立ったまま穴の中に腰ま

 で埋めた、その時に目玉が飛び出し白日子王は死んだ

❺大長谷命は目弱王の逃げ込んだ先の都夫良意富美の家を

 包囲し攻撃した。都夫良も応戦したが、力尽きて太刀で

 目弱王を刺し殺して返す刃で自分の首を斬り死んでし

 まった

3  市辺之忍歯王の難  5~7

 ❶この事変の後、近江の韓袋という者から近江の良い狩場

 を大長谷命が紹介されて、市辺之忍歯王を引き連れて近

 江出かけた

❷二人の皇子はそれぞれ別に仮の宮をつくって泊まり、市

 辺之忍歯王はいつもと変わらず起きて、大長谷命のそば

 用人へ「夜はすっかり明けたよ、お出かけなさい」と言

 って、先に出かけた

❸このため、やなことを言う王だ、こ用心して武装な

 さいませ」との忠告を受け、大長谷命は衣服の下に鎧を

 つけ弓矢をもって馬に乗って出かけ、市辺之忍歯王に

 いつき矢を抜いて彼を射ち落とし、身体を切って馬の飼

 ば桶に入れて、地面と同じ高さに埋めた

➍一方、市辺之忍歯王の二人の子はこの事変を聞いて、そ

 こから逃亡された

  ※二人の子 後の仁賢天皇と顕宗天皇

❺逃亡中、山城で食事しているとき入れ墨をした老人の「

 山城の猪飼」がやってきて二人の食事を奪った

 二人は更に逃げて播磨国に行き、その国の住人の志自牟

 という家で身分を隠して、馬飼い・牛飼いとしてつかわ

 れなさった

テキスト資料


62             第21代 雄略天皇

 

                          124歳で死亡、二人の兄を殺害して即位した天皇

内容 下記テキスト資料 あらすじ・特記
 1  后妃と御子  1

❶大長谷若建命(雄略天皇)は長谷の朝倉宮で天下を治めた

❷天皇は大日下王の妹の若日下王と結婚したが子供はいなく、次の都夫良

 意美の娘の韓比売と結婚し白髪命(22代清寧天皇)と若帯比売命を生ん

 だ

❸この天皇の時、呉人が渡来して飛鳥の呉原にお置きになった

 (高松塚古墳の近くのクリハラ?)

2  志幾の大県主の家  2~3

❶天皇は河内にでかけ暗峠から国内をご覧になった時、屋根の上に堅魚木

 を上げて作っている家がありお伴の者に誰の家かと尋ねられ、「志幾の

 大県主」の家と、お伴は申し上げた

❷天皇は天皇の宮殿に似せて造っていると仰せになり、ただちに人を遣わ

 しその家を焼かせるようになされた

❸その大県主は恐れ畏んでお許しを願うしるしの献上物に「布をかけ鈴を

 つけた白い犬」を同族のコシハキという者に綱を取らせて献上した

➍そこで天皇は家に火をつけることを止めさせられ、若日下王のところへ

 お出かけになり犬を結納の品としてお贈りになった、そして、若日下王

 は「私の方から直接参内してお仕えする」と申し上げられた 

3  引田部の赤猪子

 3~5

 

❶天皇が遊びで三輪川にお着きになった時、衣服を洗っていた容姿の美し

 い乙女がおり「引田部赤猪子」と天皇に申し上げた、すると天皇は「

 に嫁がないでおれ、そのうち宮中に召そう」と仰せられお帰りになった

❷それで赤猪子は、お召しの言葉をお待ちして、とうとう80年の年月を

 ごしてしまったが、誠意を打ち明けないことには我慢ができないと思い

 たくさんの結納品をもたせ参内して献上した

❸ところが、天皇は昔の仰せられた事を忘れており「おまえはどういう

 婆さんか、何のため参内したか」とお尋ねになり、赤猪子はお召しの

 お言葉をお待ちして守り通した操を打ち明けようと参上したことを申し

 上げた

➍これに対し、天皇はひどく驚き、操を守り娘盛りの年を誠に不憫に過ご

 させたと仰せられた。内心では赤猪子と結婚しようとお思いになられた

 が、彼女がひどく老いて結婚が出来ないのを悲しんで歌を賜われた

 彼女はこの歌をいただいて泣く涙がすっかりその来ている赤染の袖をぬ

 らし天皇に歌をうたった、天皇はその老婆にたくさんの品物を賜って

 かえしておやりになった

 この中での四首の歌は志都歌(しんみりと歌う)という歌曲である

 ※日下江とは大阪湾のこと

4  吉野の童女  5~6

❶天皇が吉野宮へお出かけになった時、大変姿の美しい乙女が吉野川の岸

 辺におり、この乙女と結婚されて泊瀬の宮にお帰りになった

❷その後、また吉野にお出かけになり、その乙女とお会いになったところ

 にとどまり天皇は呉床にすわって琴を弾き、乙女に舞を舞わせた

 その舞が上手だったので天皇は歌を詠んだ

5  阿岐豆野(あきずの) 6

❶阿岐豆野で狩りをしていた時、一匹の虻が天皇の腕に食いついたところ

 ただちに蜻蛉が来て、虻をくわえて飛んで行った

❷そこで天皇は歌をお歌いになった、その時から、野を阿岐豆野という

6  葛城一宮主之大神  7~8

❶天皇が葛城の山の上に登った時、大きな猪が出てきた。すぐに天皇が鳴

 鏑の矢でその猪を射られた時、その猪は怒って唸り声をあげて襲ってき

 た。天皇は恐れて榛の木の上に逃げ登られた。この時、歌を歌われた

❷またある時、天皇が葛城山に登られた時、大勢のお伴の官人は青摺りの

 衣服を着ていたが、迎いの山頂目がけていく行列があり、全く雄略天皇

 の行幸そっくりの一行と服装の様子もよく似て同等なものであった

❸そのため、天皇は「大和国には二人と大君はいないのにだれが同じよう

 行列をつくっていくのと仰せになり怒って官人含め弓に矢をつが

 えた、すると向こうの人たちも矢を弓につがえた

➍そこで天皇は「互いに名を名乗ってから矢をはなとう」と仰せられ、「

 向こうの人は「私は凶事も一言、吉事も一言で解決する神、葛城一言主

 之大神であるぞ」と申した

天皇は、この言葉を聞いて恐れ畏まって、ご自身の太刀や弓をはじめ

 大勢の官人たちが着ている衣服を脱がさせて拝礼し献上なされた

7 金すきの岡   9

❶天皇が丸邇臣佐都紀の娘のオド比売に求婚するために春日(奈良県の北の

 方の奈良山に近い方)にお出かけになった時、その乙女が道で天皇のご一

 行に出あった

❷天皇の行幸を見ると乙女はすぐ丘のかたわらに逃げ隠れた、そこで天皇

     は歌をお作りになった、歌の中で「金鉏((かなすき)の五百丁ではねのけ

     て乙女を探し出そうものを」と歌い、その丘を名付けて金鉏岡という 

8  三重の采女

 11・10・12

❶ 天皇が泊瀬の生い茂るケヤキの巨木の下にいらっしゃって新嘗の酒宴を

 なさった時、伊勢国から貢進された采女が天皇にお盃を両手で高く捧げ

     て献上した

❷その時、ケヤキの葉が落ちてきて盃に浮か、それをご覧になって、

 采女をうち伏せて太刀を首にあててきり殺そうとなさった

❸その時、采女は「私の身をお殺しなさいますな、申し上げることがござ

 います」と歌を歌った

➍こうして歌を献上したので天皇は罪を許された、この時に韓比売皇后も

 歌を歌われ、そこで天皇もお歌いになった、この三つの歌は「天語歌」

 という歌曲である、そして先に歌った三重の采女を褒めて多くの褒美

 の品をお与えになった

❺天皇のご享年は124で御陵は河内国の丹比の高鷲にある

テキスト資料

雄略天皇ゆかりの地 現地探訪  雄略天皇陵(高鷲丸山古墳)  

                   大阪府羽曳野市島泉8丁目    2018年(平成30年)10月17日探訪


63             第22代 清寧天皇

 

                          41歳で死亡、雄略天皇の御子で子いなく、没後は飯豊王が皇位継承?

 

内容 下記テキスト資料 あらすじ・特記
 1  飯豊王  1

❶清寧天皇は雄略天皇の子で皇后も子もいなかった

❷死後、葛城の角刺宮にいた市辺之忍歯別王の妹「飯豊王」が皇位継承に

 あがった

※本当だったら彼女は最初の女帝である

2

二皇子の舞 

 兄 オケノミコ

 弟 ヲケノミコ

 1~2

山部蓮小楯が播磨の国の長官に任命され、志自牟という者の新築の酒宴

 に臨席し、火を焚く役のかまどの傍にいた少年二人にも舞を舞うように

 命じた 

舞に、お互い先を譲りあっていたが、兄が舞い弟が舞おうとするときに

 弟は「自分は市辺之忍歯別王の子」と名乗った 

❸これを聞き、小楯連は驚き床から転げ落ち、室屋にいる人を追い出し

 二人を左右の膝の上におすえしてし泣き悲しんで仮の宮殿をつくらせて

 お住まわせ、早馬で大和へ奏上した

飯豊王は知らせを聞き喜んで二皇子を葛城の角刺宮に上らせなさった 

3  歌垣  3~4

❶弟が結婚しようとする「大魚(オウヲ)」を巡って、大豪族の平群(へぐり

     )の志毘王とお互いに片歌で恋のバトルでののしりあった

❷翌朝、兄と相談し、志毘王の家を軍勢を集め囲い彼を殺害した

  ※志毘王は日の出の勢いの大豪族であった

❸その後、天下統治については兄弟はお互いに譲れあったが、兄が播磨で

 弟が名を明らかにしたした手柄だとして兄は辞退し、弟が天下を治める

 ことになった

テキスト資料

清寧天皇ゆかりの地 現地探訪  清寧天皇陵(西浦白髪山古墳)  

                   大阪府羽曳野市西浦六丁目2  2018年(平成30年)10月17日探訪


64             第23代 顕宗天皇

 

                          38歳で死去、播磨国に逃亡した弟の皇子(ヲケノミコ)

内容 下記テキスト資料 あらすじ・特記
 1 オキメノオウナ  5~7

❶17代履中天皇の子で「市辺之忍歯別王の御子、」で弟のヲケノミコが八年間

  治政した、難波王と結婚したが御子はいなかった

❷この顕宗天皇が父の市辺之忍歯別王の遺骸を捜している時に、近江国の卑

 しい老婆が参内して埋められた場所と父の歯の形を知らせたため遺骸が発

 見された

❸天皇はその場所の東に御陵を造り、復讐の意味でも、もとの雄略天皇の配下

 のカラフクロの子らに墓守りを命じて遺骨を大和へ持ち帰った

老婆の功績を讃え「オキメノオウナ」と名付け、皇居内に住まわせて手厚く

 もてなし毎日お召しになった、鐸(ヌリテ)をお引きならしお召しになるとき

 はかならず天皇は歌をお作りになった

❺そして、彼女が年をとったため故郷へ帰りたいと申し入れたのを受け入れて

 見送る時も天皇は歌を詠んだ

❻この天皇の父の市辺王が殺されるとしう災難にあって逃げる時、食糧を奪っ

 た猪飼の老人を探し出して復讐のため飛鳥川の河原で斬り、その同族たちの

 膝の筋を断ち切った、その地は「志米須」という

2  御陵の土  7~9

❶顕宗天皇は父を殺した雄略天皇を恨み、その御魂に復習しようとした

❷そこで天皇は故雄略天皇の墓を壊そうと兄のオケノミコの進言もあり兄を

 現地へ行かせ御陵を壊させることとした

❸兄は天皇に破壊について復命したものの「御陵の傍の土を少し掘ったことで

 破壊した」と申したので天皇は理由を聞いた

➍兄は「雄略天皇は父の怨敵であるが、我々の叔父で天下を治めた天皇で、御

 陵を壊したなら後世の人から非難されるでしょう。父の仇はうたねばなりま

 せんが御陵のほとりを少し掘り、辱めを与えることで復仇に不足はない

 しょう」と説明し、天皇は「道理にかなっている」と仰せになった。天皇が

 亡くなると兄が皇位についた

テキスト資料

65             第24代 仁賢天皇

 

                          38歳で死去、播磨国に逃亡した兄皇子(オケノミコ)


内容 テキスト資料 あらすじ・特記
 仁賢天皇  10

❶23代顕宗天皇の兄24代仁賢天皇は石上の広高宮で天下を治めた

❷この天皇には7人の御子がおり、小長谷若雀命が25代武烈天皇となった

テキスト資料

仁賢天皇ゆかりの地 現地探訪  仁賢天皇陵(ボケ山古墳)  

                   大阪府藤井寺市青山三丁目     2018年10月17日探訪


66             第25代 武烈天皇

 

                          41歳で死亡(506年)

      日本書紀では暴虐非道の王、子は残さず武烈で仁徳王朝は断絶

内容 下記テキスト資料 あらすじ・特記
 1 武烈天皇   11

❶天下を治めること七年

❷死後、子がいなかったので、応神天皇の子孫を「継体天皇」近江国から上京させて仁賢

 天皇の皇女手白髪命と娶わせ天下を授けた

テキスト資料


67             第26代 継体天皇

 

テキスト資料

❶継体天皇ゆかりの地 現地探訪  真の継体天皇陵(今城塚古墳)  

                   大阪府高槻市郡家新町48-8    2018年(平成30年)10月18日探訪

❷継体天皇ゆかりの地 現地探訪  継体天皇三嶋藍野陵(太田茶臼山古墳)  

                   大阪府茨木市太田3丁目10    2018年(平成30年)10月18日探訪


68             第27代 安閑天皇

 

テキスト資料

安閑天皇ゆかりの地 現地探訪  安閑天皇陵(古市築山古墳)  

                   大阪府羽曳野市6    2018年(平成30年)10月17日探訪


69             第28代 宣化天皇

 

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70             第29代 欽明天皇

 

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欽明天皇ゆかりの地 現地探訪  欽明天皇陵(檜隈坂合陵) 西側に「吉備姫王墓」あり 

                   奈良県高市郡明日香村大字平田    2015年(平成27年)9月30日探訪

欽明天皇陵                     吉備姫王墓           猿石(吉備姫王墓内)


71             第30代 敏達天皇

 

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敏達天皇ゆかりの地 現地探訪  敏達天皇陵(太子西山古墳)  

                   大阪府南河内郡太子町太子    2018年(平成30年)10月17日探訪


72             第31代 用明天皇

 

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用明天皇ゆかりの地 現地探訪  用明天皇陵(春日向山古墳)  

                   大阪府南河内郡太子町春日    2018年(平成30年)10月17日探訪


73             第32代 崇峻天皇 

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74             第33代 推古天皇 

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推古天皇ゆかりの地 現地探訪  推古天皇陵(山田高塚古墳)  

                   大阪府南河内郡太子町    2018年(平成30年)10月17日探訪