⑭旧石器時代の狩猟と獣肉食
旧石器時代の狩猟と獣肉食
⒈この時代の人は気候変動や動物の多少等により狩猟して野獣肉を食する一方草食をせざるを得なく移動生活・雑食生活
していたものと思われる、
2,この時代の遺跡からは獣肉を食べていた痕跡の石や骨が多いが、草片・種子・殻等は酸性土壌や温暖・湿潤な気候等
で痕跡を残していない
3.氷河期には特に動物を集団で狩猟して肉や皮を得なければならなく、動物捕獲手段としてはこん棒だけでなく投槍・
落とし穴・わな等があった、そして倒した野獣の皮はぎや肉の切り取りのため打製剝片石器がつくられ使用された
4.従って、出土した石器は石器のキズを顕微鏡で分析すると狩猟捕獲用か動物解体用か皮なめし使用の石器がわかる
千葉県印旛郡酒々井町墨古沢遺跡の出土石器からみる当時の生活様式
❶日本列島への現生人類の最初期の到来は3.8~3.7万年前で「後期旧石器時代前半期」に区分されている
❷墨古沢遺跡は3.5~3.3万年前の遺跡で下記によりこの時代を研究するための重要な材料を提供する遺跡
⑴台形様石器などの出土 ⑵環状ブロック群(集落)跡 ⑶信頼できる炭出土で年代測定値可
⑬牛飼い歌人・小説家「伊藤左千夫」(元治元年~大正2年 50歳で没)
の愛した故郷の散策
JR成東駅から 山武市役所・記念公園・歴史民俗資料館散策
千葉県山武市 2023年(令和5年)11月30日
代表文学 小説「野菊の墓」
代表的な家畜の歌
牛飼いが 歌よむときに 世の中の 新しき歌 おおいにあがる
牛の児に 吾手をやればしが 乳房すするさまにし 手をすするかも
⑫縄文犬と日本最古の動物儀礼跡
⑴縄文時代の遺跡からは犬の骨が発見されている、しかも飼い犬の骨である、もちろん日本には
昔から日本狼が野生していたが家畜化されなかったから古代の飼い犬は東南アジアから人間に
伴われて早い時代に日本にもたらされたものと思われる
⑵縄文犬は狩猟犬としての飼い犬として大事に扱われて下画像にあるように丁重に埋葬されている
⑶古代日本人が盛んに狩猟を行ってしたことは古代の遺跡からの野獣の骨や儀礼跡で明らかにな
っている
千葉県船橋市飛ノ台史跡公園博物館にて画像撮影 2023年(令和5年)9月24日
⑪馬頭観音 煩悩を馬が草をむさぼり食う
⑴馬が草をむさぼり食べるように煩悩を食べつくし畜生道に落ちた人々を救う観音
とされてきた
⑵観音の額には馬頭があり、仏眼と言われる第三の目が備わり、馬の口をかたどった
合掌の「馬口印」と結ばれている
⑶近世では馬頭観音の石造を道端に祭り家畜の供養をすることが多かった
千葉県八千代市内の道端にある馬頭観音石碑 (石碑の馬の字の上に馬の頭の線刻が見られる)
馬頭観音像 (千葉県内にて撮影)
額の上に「馬」のデザインがある
髪は炎のような髪型 →炎髪
顔は忿怒面で三面
手 正面右中は宝棒(→煩悩を打ち砕く棒) 左上の手は斧(→煩悩を断ち切る) 左中は剣を握っている
合掌は人差し指と薬指を曲げている印相の馬口印
座は蓮華座
上の馬頭観音前での家畜慰霊祭
千葉市稲毛区にある馬頭観世音神社
「玉泉寺」 静岡県下田市柿崎31-6 探訪日 2019年(令和元年)7月2日
玉泉寺は1856年に日本で最初のアメリカ領事館がおかれ初代総領事は
タウンゼントハリスで食文化の違いからこの地で初めてのことがおこりました
なお、玉泉寺の詳細は下❸の説明バンフ等を拡大してご覧下さい
❶日本最初の屠殺場跡
⑴1639年(寛永16年)徳川家光が鎖国政策をとって以来、江戸末期になると諸外国が艦船を率いて日本の門戸をたたいて
開港貿易を迫ってきた
⑵中でも、1853年米国のぺりーが四隻の武装艦隊を率いて浦賀にきて、大砲と軍隊で威圧を加えて、通商条約に関する国書を奉行に
押しつけて翌年再来するといって浦賀を去った
⑶そして、1854年に去年の約束だとして六隻の軍艦を率いて来航して、神奈川沖まで侵入したため、神奈川条約を締結したあと
米艦隊は下田に回航した。その間、食生活における牛肉は入手困難であった
⑷1856年(ぺりーが下田を去って2年後)にタウンゼントハリスが米国総領事として下田に着任し、下田の「玉泉寺」を総領事館
とした、ハリスは下田滞在中に消化不良に起因する胃酸過多症に悩んでおり、食生活に細心の注意をはらっており、牛肉や牛乳
を所望したが役人との交渉は難航し、確保は難をきわめた
⑸そして、ハリスは玉泉寺滞在中、境内の仏手柑の木に牛を縛りつけ、これを殺して食用にした。これが日本における
屠牛の始めであり、また、肉食における始めであると一般には考えられている(下の屠牛絵図参照)
但し、元禄以前、彦根藩高宮で屠殺して将軍家に献上したことや、天明年間すでに長崎オランダ居留地で屠牛を行っていたこと
を考えると決して玉泉寺境内が日本で最初のものでないことは明らかであろうとおもわれる
⑹昭和6年に東京の牛問屋の有志によって上記のことを記念する「屠牛木供養塔(牛王如来)」が建立、その碑文に高楠順二郎
文学博士の撰文が刻されている(下画像参照)
⑺屠牛の際、牛を縛り付けたという仏手柑はすでに枯死しているが幹の一部が下の画像のとおり記念物として寺に保存されている
仏手柑とは柑橘類の一種で、現在では、もとあった跡には由緒もないナツメの木が成長している
供養塔の除幕式には東京の食肉業者は東京汽船菊丸一隻を貸切って乗り込み、参列の町民には餅をまき、下田の芸子全員を
かりだして、下田全町あげての賑あいだったと伝えられている
参考文献「日本食肉史」(福原康雄著)
❷日本ではじめて牛乳が伝えられた地
玉泉寺本堂の前右側にある「牛乳の碑」
⑴ハリスは幕府役人に牛乳を所望し確保を交渉するも、日本人は牛乳を飲まないので乳牛はいないと断られていた
⑵ここで登場するのがハリスの看護人である「斉藤きち(俗にいわれている唐人お吉)」で彼女は幕府役人から
ハリスのいうことは何事も聞くようにいわれていた
⑶そこでハリスが非常に牛乳を欲しがるので彼女は自から下田在の懇意な百姓に妙薬を練るのに必要だといって多少
の金子を与え牛乳一合を絞らせた、これをハリスに与えたところ非常に喜んだ
⑷ハリスはこの牛乳を証拠として幕府役人に抗議し、役人は文句も言えず、老中に言上した上で、村々に命じて
牛乳集めに奔走した、しかし、乳牛がいなく、誰も搾乳の技術を知らなかったので極めて少量の牛乳しか手に入らなかった
母牛が子牛に乳を飲ませた後で搾乳したということから少量であったと言われている
⑸こうしたことから、玉泉寺にはハリスの牛乳飲用を記念した下画像の「牛乳の碑」がある
参考文献 「日本畜産史」加茂儀一著
❸玉泉寺の説明と境内風景
2019.4.23 千葉県市原市の上総国分尼寺跡に見学に行きました
資料館の展示室の出土品の器に「蘇」という文字が下画像のとおり書かれていました。
近くの遺跡から出土されていたもので古代の上総国(千葉県)ても乳製品が食されていたようです
⑴仏教では肉食を忌み嫌う風習がある。仏教伝来(538年)によって我が国の肉食は大きな影響をうけたが
搾った牛乳については仏事等に用いられた。仏教の生まれたインドは牛の天国である。
⑵乳牛から搾った飲料を「酪」といい、「蘇(そ)」とはその牛乳を煮詰めたものである。牛乳を煮詰めるとき出る被膜は
「穌(そ)」といい蘇とは別である、なお蘇は日本において独立してつくられたものではない
⑶奈良朝時代においては仏教の教えに従って牛乳・酪・蘇を尊重して、それらを宮中用として賞味した
その風習は帰化人の社会においては存在していたことが十分うかがいできる
36代孝徳天皇(645年~654年在位)の治世に「福常」という人が牛乳をしぼって天皇に奉っている、彼はこの時代日本に帰化して子孫は
乳長上の職をもって朝廷に仕えた
⑷平安期の60代醍醐天皇(897年~930年在位)に律令の施行で編纂された「延喜式」によって全国から多くの皮革や乳製品
の「蘇が献納」されていた。この献納をささえていたのは渡来民あるいは帰化人の子孫であった、
11世紀制定された「類聚三代格」第五では、我が国における牛乳飲用と搾乳に関する最初の記録が見られる
⑸68代後一条天皇(1016年~1036年在位)の時代の1025年5月に時の関白の藤原道長は滋賀県大津市の牛道と呼ばれている
ところに白い霊牛をわざわざ見に行っている記録がある
参考文献 日本食肉史 福原康雄著
日本畜産史 食肉・酪農編 加茂儀一著
新聞記事要約
❶縄文時代後期、イノシシの焼骨で骨自体が焼かれており、土偶などの祭祀遺物と出土していることから何等かの儀礼が行われていたのでは
イノシシは身近な野生獣の中でも多産で生命力が強く畏怖や畏敬の思いがもたれていたのではと思われる
❷弥生時代になって稲作で猪を食肉に特化したような豚への家畜化はおこなわれていないのでは
❸古事記においても、ヤマトタケルを倒した伊吹山の神が白猪の姿で現れるように古墳時代以降もイノシシを神とみる信仰は息づいていた
➍日本は仏教伝来以降、肉食をしなかったといわれているが、身分によっては違いがあり、武士や庶民はずっと肉を食べていたのでは
とりわけ、鹿とそれに続いたのがイノシシと思われる ※肉と言えば「鹿」、猪は「シシ肉」と呼ばれていたらしい
❺八世紀の奈良時代にはイノシシを飼う集団「猪飼部」がいたとの記述がある
❻以後は食用飼育はほとんど行われておらず労働力としての牛馬が飼養されていた
➐日本人は宴会や平常の食事では「狩り」の獲物の肉だけを使うが、自分の家で育てた動物を殺し食するのは残酷だと思っている
❽鎌倉時代には将軍主導で大規模な「狩り」が行われており、江戸時代も5代将軍綱吉による「生類憐みの令」がでていたころを除いて
「狩り・猟」は行われており、イノシシが稲を食べる害獣なので定期的に駆除され食されていたようだ
❾明治の文明開化で食べるようになった「牛鍋」は、江戸時代の「猪鍋」の肉を牛肉に変えただけである
➓したがって、古代以降、イノシシはひたすら日本人の胃袋他に奉仕してきた
2023.4.25撮影
2019.1.10撮影編集
❶家族と1月10日に千葉県成田山新勝寺に参詣にいきました、参道途中の土産物店に立ち寄り休憩していたところ店の裏側に
「成田羊羹資料館」(下左画像)があり、なんだか興味をひかれ館にはいってみました
❷成田羊羹資料館バンフ(詳細下の資料画像)より「羊羹とは・・・羊羹の歴史について」抜粋記載
⑴昔の中国・唐の時代「羹(あつもの)」という料理で、羊をはじめ、肉を細かくきり汁にうかべたものが
羹で、48種もの種類があり「羊羹」はそのひとつであったそうです、これが遣唐使により伝えられたとのことです
⑵そして平安時代末期の1172年には摂政家の献立に「羹」が登場、現代の「すいとん」のようなものだと考えられます
日本では仏教伝来以降、肉食をしない習慣であったので形と色だけ鳥獣魚介類に似せて他に原料を求めました、そして、
赤小豆と山芋、砂糖、葛粉を練り合わせて羊の肝の形にした、これにより、羊羹という名称が定着したようです
⑶室町時代に羹は茶道の点心としてよろこばれるようになりました
汁はなくなり蒸し菓子となり現代の蒸し羊羹のようになりました。
❶ 千葉県野田市関宿にある「千葉県関宿城博物館」を探訪し敷地内の公園を散策していたおり、「三県鶏鳴之地」の案内板があったので
なんだろうと興味をもち、その方向に行ったら、石碑がありました
❷その石碑の裏側に由来がつぎのように記載されていました
「古来、関宿城下を訪れ泊する旅人・船人多く早暁ときを告ぐる鶏鳴、千葉・茨城・埼玉の三県より聴こゆるを以て、誰となく、
いつとはなく、【三県鶏鳴之地】と呼ぶに至れり、又、【関八州まほろばの地】と呼ぶもありて我等こぞって誇りとすべき地なり」
❸ 江戸時代江戸へ向かうにこの地は利根川・江戸川・逆川にはさまれており、河川交通の要衛のため幕府は関所をもうけた。
野田市方面から北上する日光東往還の街道沿いのため神社・寺院も密集していたとのことで、関宿は早暁の鶏の鳴き声が一日の人々
活動のはじまりであったようです
❶11月27日の16時ごろ、NHKの催しに参加するため渋谷駅からスクランブル交差点を渡ろうとしたら
手前で何かの団体らしきのひとが「すべての動物におもいやりを」と声を上げバンフを配布されていましたので
足をとめバンフをいただきました。内容が家畜のことがメインだったため畜産業務を自分が経験したことから
内容に注目した次第です(渋谷画像・パンフ内容は下画像のとおり)
❷関連して、翌日にテレビニュースで欧州のスイス国で25日「畜産農家の牛の角切の禁止」の是非が国民投票されたが
否決されたとのことが報道されたことで、近年、❶との関係でAWの動きが、欧州を中心に世界的に大きなうねり
となってきつつあると認識しました。2020年の東京オリンピックの選手への食材にも影響をあたえるのでは
❸こうしたことから、ひさしぶりに畜産業界誌で調べたところ、今後は日本の畜産生産者はこれまでの責務
(食品の安全、環境への配慮、人への健康)に加え新しいコンセプトである「アニマルウェルフェア」を意識
しなければならないと記載されていました