上画像は佐世保市早岐町にある 早岐神社
郷土の「早岐」は長崎県佐世保市にあり、豊かな自然と歴史にめぐまれています。ここのホームページでは現在の地名の佐世保市の早岐・広田・重尾町をメインに、主に歴史について「佐世保市図書館の郷土資料誌」や「早岐郷土史概説」等を参考に掲載しています
長崎県の佐世保の地名の由来
説❶ 「シャシャンボ」という木がたくさん生えていたので、なまって「サセボ」となった
説❷ 鎌倉・室町時代は、「港」は「津」が単位と、「村」は「保」という単位でつけられていた
そして、佐世保川流域が狭い谷間であったことから「狭瀬」に由来し「狭瀬保」となり
後に「佐世保」となった
肥前風土記(現在の長崎県と佐賀県を記録 732~740年に編纂)での早岐は?
風土記がつくられる400年ほど前、速来津の土蜘蛛が第12代景行天皇の命令に従わず反乱をお
こしたため、天皇は家臣の神代直を派遣して反乱を鎮めた。反乱をおこしたのは土蜘蛛の長の
「速来津姫」だった。
※土蜘蛛とは東北の蝦夷や九州の熊本の熊襲のように当時の早岐や五島に住んでいた豪族の
総称をいう
なお、風土記によれば、早岐の特産品は「ワカメ」があげられている
下画像は速来津姫の墓ではないかといわれている鬼塚古墳(円墳) 佐世保市宮津町
古墳入口付近(下左画像) 鬼塚古墳(下右画像中央部)
風土記の書籍で「肥前風土記での彼杵郡」詳細記載は下記掲載のとおりです(拡大してご覧ください)
「早岐の郷土史」については下画像の「早岐郷土史概説」を主に参考に掲載しています
早岐地区史跡・遺跡
早岐の風景
2023.5.31撮影 (西海橋帰路のバス車窓の針尾島からの撮影です)
2023.5.28撮影(早岐茶市が開催されていました)
2023.4.15撮影 (一部 宮の風景を含みます)
早岐の昔の街並みの絵地図(拡大してご覧ください)
農園の所在地は重尾町の舳の峯番所峠(西肥バス東部営業所の裏山側)にあり、園主の実家は隣町の広田町でした。交通の拠点は早岐駅で幼少のころは5月に早岐の町の早岐茶市を見に、早岐駅からは蒸気機関車に乗って子供会で相浦へ海水浴、又、佐世保市内の繁華街のデパートへ親から連れられていった楽しいたくさんの思い出があります。
ここでは、幼少の思い出を振り返り先人の築いた郷土を「早岐郷土史概説」の記載内容をもとに探訪していき都度画像を追加掲載していきます
早岐駅の新旧
新駅舎
上画像は2022.4.13に撮影
下画像は新建設中の早岐駅の風景
下画像は2013.4.6当時とそれ以前の早岐駅の風景
「ありがとう早岐駅」での昔の旧早岐駅舎写真パネル展
開業1897年(明治30年)7月10日~2014年(平成26年)10月11日で旧駅舎使用終了
平成26年10月11日~27日開催時に撮影しました 写真は拡大してご覧いただけます
昔の国鉄時代の駅地図と旧佐世保駅(JR有田駅掲示板で撮影)
鉄道の町、早岐駅(近隣駅含む)の歴史
西暦 | 和暦 | 出来事 |
1897 |
明治30年7月10日 |
市内初の鉄道で九州鉄道が早岐駅まで開業 |
1898 | 明治31年1月20日 | 九州鉄道早岐駅~佐世保駅間が開通(佐世保駅開業) |
1945 | 昭和20年8月10日 |
前日の長崎原爆投下後、救援列車が早岐駅に到着し被爆者は早岐国民学校に移送 されたが100名以上が負傷されており亡くなられた方も多く悲惨な事態であった |
1945 | 昭和20年10月14 日 |
外地からの引揚者や復員者が針尾島浦頭に1955年までに約140万人が上陸し 大村線の南風崎駅から専用列車で帰郷した |
1947 | 昭和22年4月24日 | 復員輸送のため国鉄が南風崎駅から早岐駅経由で東京・上野まで臨時列車運行 |
1948 | 昭和23年8月 | 早岐駅経由で東京~長崎間に客車の準急が一往復運行開始 |
1950 | 昭和25年11月2日 | 早岐駅経由の東京~長崎間の客車急行に「雲仙」の愛称が与えられる |
1954 | 昭和29年10月1日 |
東京~佐世保間の連合軍専用列車を通常の急行列車で「西海」の愛称をつける 初の佐世保駅発着の優等列車 |
1957 | 昭和32年 | 佐世保駅前に地下街が設けられる(2002年5月閉鎖) |
1959 | 昭和34年9月22日 | 佐世保~博多間に気動車準急「弓張」が運行開始 |
1960 | 昭和40年10月1日 | 東京~佐世保間の寝台特急「さくら」と新大阪~佐世保間昼行特急「みどり」が新設運行 |
1972 | 昭和47年3月15日 | 市内国鉄線で蒸気機関車定期運転終了、すべてディーゼル機関車・気動車による運転となる |
1976 | 昭和51年7月1日 | 国鉄佐世保線の電化工事完成、電車特急「みどり」佐世保~博多・小倉間運転開始 |
1987 | 昭和62年4月1日 |
JR九州発足で国鉄早岐駅からJR早岐駅となる |
1992 |
平成4年3月10日 |
早岐の隣駅「ハウステンボス駅」開業 |
1999 | 平成11年3月13日 | 長崎~佐世保間気動車特急「シーボルト」(2往復)が運行開始(2003年3月14日廃止) |
2000 | 平成12年3月10日 | 寝台特急佐世保着「あかつき」廃止で本州乗り入れ直通列車と夜行列車の市内乗り入れなくなる |
2001 | 平成13年12月26日 | 佐世保駅の高架化と新駅舎完成で営業開始 |
2014 | 平成26年3月15日 | 長崎鉄道事業部佐世保車両センターとして運用開始 |
2014 | 平成26年10月11日 | 旧早岐駅舎使用終了し新駅舎で営業 |
早岐の史跡巡り
早岐瀬戸と観潮橋・恵比須神社
常楽院(熊野神社)跡 2018年11月17日撮影
尾崎公園から続く小山で、かつ元稗田小学校があった跡地の裏山で、もともとは常楽院(神徳寺)があったといわれている
1586年(天正14年)「井出平合戦」のとき大村勢は平戸藩へここから攻め込んだと伝えられている、
この年に広田城の戦いもあり、これらの戦いが花薫果農園の近くの「舳ノ峯番所」の起こりと伝えられている
明治四年に熊野神社は早岐の村社に指定されたとのことです(早岐郷土史概説より)
尾崎公園(早苗町)
私の幼少期の昭和30年ごろから桜とつつじで早岐では花見の名所となっている。植樹され持ち主は尾崎保寿さん
というかたで国鉄に勤務されていたかたです。「尾崎公園」として現在は市立公園として管理されています。
大念寺鐘楼山門(早岐) 天満宮(権常寺町)
1541年(天文10年)川尻隠岐守の開基による 幼少のころ夏祭りで「豆やろかさいさい?」の音頭で踊られていた
楼は明治10年再建、平成3年正月失火で全焼後再度再建 記憶があります
吉田松陰早岐小松屋投宿の碑(早岐) 早岐機関区給水塔(旧早岐駅裏側)
なきえびすさま(泣きびすさん)
広田城の戦いの時、城内から脱出した若い母と乳飲児が敵兵に発見され、逃げられず母子ともに生命を
奪われることがあった。戦いの終わったある日、死体を見た土地の人が哀れに思い厚く葬り、手ごろの
石を置き、供花・香をたいて拝んでいたが、後世このお堂は、夜眠らない乳飲児に苦しむ母親の助け仏
となって、今では江上有福の安産の観音様と広田の子泣き地蔵様といって、この地方の双璧の子育仏様
として崇められている(郷土史資料より記載)
早岐神社と展望風景(早岐町)
早岐神社入口 早岐町内の平戸街道道案内板
三島遺跡(広田町)
三島遺跡は広田の住吉神社の裏手の小丘のところで、1647年(天保4年)の藩作成の地図には島となっているが1699年(元禄12年)では
陸続きとなっている。
三島遺跡からは12世紀の経筒・銅鏡等が発掘(上記「早岐郷土史概説」上画像掲載)されている
2018.12.13現在の広田の住吉神社と付近の風景
境内整備以前の広田町の住吉神社
住吉神社の「おこしやすみ」(広田町の住吉公園)
幼少のころの昭和30年代、ここの広場の相撲場で毎年秋に大人の相撲大会があっていました
瑞光寺跡(広田町の実家の近く)「お観音様」
私の少年期は敷地内での夏祭りで旅回り一座の方の芝居公演で賑わいました。また、三角ベースソフトボールをして広場で
よく遊び桜開花の時期は町内会花見がおこなわれていました。
天正二年(1574年)ごろキリスト教の布教によりここはキリシタンから焼き討ちされたと郷土史に記載されています
画像左は「お観音様」 中央は広場 右は観音様から 右側が納屋ノ谷
(陶器出土品は上記郷土史に写真掲載)
納屋ノ谷の窯遺跡碑と広田城跡入口の石碑(広田町)
重尾の八幡宮(重尾町)
重尾のお不動さん(重尾町)