高齢者講座の復習 日本の古代史
古事記 中巻
49 初代神武天皇
順 | 内容 | 下記テキストページ | あらすじ・特記 |
1 |
東征 |
1~3
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❶神武天皇(カムヤマトイワレヒコノ命)と同母兄の五瀬命(イツセノ命) の二柱は高千穂宮におられ平安な政を求め東にいくことを 決心された ❷日向を立ち、豊国の宇佐に立ち寄り筑紫の岡田宮に一年間滞在し、 安芸国のタケリの宮 に七年間、さらに吉備の高島宮に八年間滞在 した ❸その時、国神の「サホネズヒコ」に出会い、神武は彼を道案内人に した、彼は倭国造の祖先にあたる ➍大阪湾に着いた時、「トビノナガスネヒコ」の軍勢が待ち構えてお り、 兄の五瀬命は手に矢を受けて戦いに負け、「私は日の神の子 だから日に向かって戦うのはよくないので 迂回して討とう」と言い紀伊国へ向かい着いたときに亡くなった |
2 | 熊野の高倉下 | 3~4 |
❶神武はそこから迂回して熊野に着いた時、荒ぶる神の化身の大熊 の姿が見え隠れしたため毒気で皇軍ともども正気を失い横たわっ てしまった ❷この時、熊野の高倉下(たかくらじ)が一振りの太刀を持ってきて 神武がこれを受け取った時に荒ぶる神は独りでに切り倒されて、 皆、正気を取り戻した |
3 | 八咫烏の先導 | 5 |
❶高木大神は御子である神武に八咫烏(ヤタガラス)を天から遣わし 道案内を先導させた ❷そして、国ツ神の「ニエモツノコ゚(天皇の料理人で阿陀の鵜飼の 祖先)」と「イヒカ(吉野首の祖先)」「イワオシワクノコ(吉野 国栖)」らと出会う ❸そこから宇陀に向かった |
4 | エウカシとオトウカシ | 6~7 |
❶宇陀には「エウカシ」「オトウカシ」の二人の兄弟がおり 八咫烏が天ツ神の御子にお仕えするかと尋ねたところ鳴鏑の 矢で追い返された ❷エウカシは軍勢を集めきれなく御子にお仕えすると偽って おきな御殿をつくり押機で殺そうと待ち構えていたが、オトウ ヵシはこの兄の策略を打ち明けた ❸これを聞いた道臣命(大伴連の祖先)とオ久米命(久米直の祖先)の 二人は兄をののしって「お前が先に入って次第をはっきりさせ ろ」と御殿の中に追い詰め押機に打たれてエウカシは死んだ、 そして死体はバラバラに切りちらされた ➍ 御子(神武)はオトウカシの献上したご馳走をすべて部下の兵士 たちに賜り歌を詠んだ、そしてオトウカシは宇陀の水取の 祖先となる |
5 | 久米歌 | 8~10 |
❶神武は宇陀から忍坂(奈良県桜井市)に進軍し大きな穴倉に着いた そこには土雲という土着民が来るのを待ち構え怒り叫んでいた ❷御子神武は皇軍の勇者にご馳走と太刀を与え、久米歌を歌い土 雲を討てと仰せられたので兵士たちは土雲を撃ち殺してしまった ❸その後、「トミビコ(ナガスネヒコのこと)」を討つときも、三っ の歌を詠まれた、 又、兄師木と弟師木を討った後や皇軍がしばらく疲れた際も歌 を詠まれた ➍ニギハヤギの命が参上し「天ツ神の印の神宝」を献上してお仕 えした 彼はトミビコの妹の「トミヤヒメ」と結婚して「ウマシマジノ 命」( 物部連、穂積臣、采臣の祖先)を生んだ ❺以上のとおり、荒ぶる神どもを平定し服従しないものを撃退し 奈良の畝傍のカシハラの宮で天下を治められた ※久米歌 神武が久米部(大伴氏の祖先)を率いて諸族を打ち負かした古代の 軍歌で久米舞の際に歌われる 多くの歌が「撃ちして止まむ」で終わる その後、子孫の大伴家持は「海ゆかばみつぐかばね、山ゆかば 草むすかばね大君のくにこそ死なめ、かえりみはせじ」と奈良 時代末期完成の万葉集で歌っています
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6 | 皇后の選定 | 11~13 |
❶神武が日向にいたときアヒラヒメと結婚し多芸志美美命と 岐須美美命の二柱を御生みになった ❷更に皇后をさがされ大久米命が「美しいセヤダタラヒメが 三輪の大物主から気に入られヒメタタライスケヨリヒメという 生まれた神の御子」を野遊び中に歌で天皇に紹介し一晩の お休みで三柱の命の御子がお生まれになった |
7 | 多芸志美美命の反逆 | 14~16 |
❶神武天皇が亡くなった後、多芸志美美命は神武天皇の皇后ィス ケヨリ ヒメを妻としたが、三人の弟たちを殺そうとたくらん だので母のィスケヨリヒメは歌で皇子たちに危機を知らせた ❷三皇子は歌で陰謀をさとり神沼河耳命は兄の神八井耳命に殺害 をすすめたが手足が震え殺害できなかった、この兄の有り様を 見てもっていた武器を貰い受け多芸志美美命を殺した ❸この勇敢な行動で名前を「建沼河耳命」とし兄は弟に皇位を 譲って第2代綏靖天皇となり、兄は神事を司る職で仕えた、
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テキスト資料
❶神武天皇関係現地史跡巡り 神武天皇畝傍山東北陵 奈良県橿原市大久保町 2013年(平成25年)11月13日 探訪日
❷神武天皇関係現地史跡巡り 樫原神宮 奈良県橿原市 2013年(平成25年)11月13日 探訪日
❸神武天皇関係現地史跡巡り 吾平山上稜 鹿児島県肝属郡吾平町 2019年(令和元年)10月18日 探訪日
神武天皇の御父君と御母君の御陵
50 第10代崇神天皇
順 | 内容 | 下記テキスト | あらすじ・特記 |
1 |
后妃と御子 | ① |
❶崇神天皇(ミマキイリヒコイニエの命)は磯城の水垣で天 下を治めた ❷天皇は三人と結婚し御子は12柱で皇子7皇女5をもうけミ マツヒメから生まれたイクメイリヒコイサチノ命が次期 天皇の「垂仁天皇」となる ❸天皇の子らには 上毛野君(群馬)下毛野君(栃木)の祖先 伊勢神宮に天照大御神を祭られた 能登臣の祖先 崇神天皇陵にはじめて周囲に人垣を立てた人がいる |
2 | 三輪山の神を祀る |
②~➂ |
❶天皇の御世に流行病で人民が死に絶えようとしため神託 の夢の中で大物主命が現れて「子孫のオオタタネコで疾 病我を祀れば平安になる」とのお告げがあっため天皇は 使者にオオタタネコを探させ彼を三輪山の神主に斎き祀 らせた ❷イカガシコオノ命に命じて、天上の神と地上の神との社 制を定めた ❸天皇家の祭祀を原住民神社まで押し進めた ➍これにより疾病はすっかりやんで国家は平安になった |
3 | 三輪山伝説 |
➃~➄ |
❶オオタタネコを神の子と知った理由が書かれている イクタマヨリヒメが身重になって相手の美しい男の着物 の裾に麻糸をつけその糸を頼りに尋ねていくと三輪山の 神の杜でおわっていたのでオオタタネコが大物主の子孫 であることがわかった、なお、麻糸が巻子に三っ残って いたので三輪という ❷彼は神君・鴨君の祖先である |
4 | タケハ二ヤスノミコの反逆 |
⑥~⑧ |
❶三将軍の一人で越の国平定のオオビコは遠征時、乙女の 「妙な歌」を山城国で聞き天皇に報告する ❷天皇は異母兄のタケハ二ヤスノ命の謀反の印だとして、 オオビコらに討伐を命じ、タケハ二ヤスノ命は丹波担当 将軍の日子座王の弓矢で射殺されため軍勢は総崩れにな った ❸平定を果たしたオオビコらは天皇に戦果を復命する |
5 | 初国知らし天皇 | ⑧ |
❶オオビコノ命は越の国を、彼の子のタケヌナカワは 東海道平定の勅命を受け、各地で起こった反天皇勢力 を崇神天皇のもとで鎮圧した ❷天下泰平になり、人民も富み栄えて生産物を貢納でき その御世を褒め讃え「初国知らし御真木天皇(ミマキス メラミコト)」と申している |
日本書紀 | 崇神天皇紀より「箸墓伝説」 | 1~2 |
❶三世紀の末の崇神天皇の時、天皇の大叔母で第7代孝霊 天皇の皇女である「倭トビモモソヒメ命」は天皇を助け て大物主神の妻となる ❷ところで昼は顔を見せず夜だけかよってきたので彼の顔 を見たいと懇願したら「小蛇」になった、姫は驚き、神 はお恥をかいたと言って御諸山に帰って行った ❸そのことを悔いて、彼女は陰部を箸でつついて自殺した 人々は墓をつくり「箸墓」と言われるようになった ※箸墓古墳は卑弥呼の後の「台与(とよ)の墓という説あり
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参考① ●古事記では三将軍しか記載されていない
●日本書記では四将軍が明記されている
北陸 オオビコ 東海 タケヌナカワ 西海 吉備津彦 丹波 丹波道主命
② 崇神天皇陵には人垣があったが、垂仁天皇の妻のヒバスヒメの葬儀の際から殉死の代わりに第13代出雲国造
の野見宿禰が「埴輪の制」を案出しため埴輪に変わった、又、彼は垂仁天皇の命で相撲をとり、相撲の始祖
・神様としてでも有名である、播磨国(兵庫)の龍野で病死する
❶崇神天皇関係現地史跡巡り 奈良県桜井市 大神神社(三輪神社) 参拝日 2015年(平成27年)10月1日
51 第11代垂仁天皇
順 | 内容 | テキストページ | あらすじ・特記 |
1 |
后妃と御子 | 1~2 |
イクメイリビコイサチ命は皇子13皇女3計16柱をもうける 彼は身長203cm(1丈199cm、2寸4cm) シキの玉垣宮(奈良県桜井市)にて天下を治める 崇神天皇の第3皇子で生母はミマキヒメ命 皇后はサホヒメ命で兄の謀反に従って焼死、後の皇后は丹波の ヒバスヒメ命(彼女の二番目の子が景行天皇) |
2 | サホビコとサホヒメ | 3~7 |
サホヒメの兄サホビコの謀反に従ってサホヒメは兄ともに死すが、天皇 へ子供の「ホムチワケ」の命名と子育ての方法や後の皇后までを指名して 亡くなる 語句解釈 ①兄(いろせ)とは同じ母親の兄のこと、母親が違う場合「庶母 」という ②「玉作」とは勾玉をつくる玉造り部のこと ➂「こひもは誰が解かむ」は浮気防止の表現である ➃この時代は母方で子供の名前をつけて育てる慣習があった と思われる |
3 | 唖のホムチワケノミコ | 8~11 |
❶ホムチワケは成人になっても口をきけず天皇は白鳥捕獲や祈りで 話せることを試みましたが無駄でした ❷ある夜、垂仁天皇は出雲大社修復の夢を見てお告げがあり、ホムチ ワケを出雲へ向かわせた、修理が終わった段階でしゃべれるように なった ❸彼は、その後、気分が良くなり土地の女と一夜契ったが彼女が大蛇 だったので怖くなって垂仁天皇ところへ急いで戻った |
4 |
丹波のマドノヒメ
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12 |
天皇は丹波からきた、後の皇后「ヒバスヒメ」を含め四人姉妹を妃と したが、そのうち二人を容貌が悪いと丹波へ戻したため、その中の「マド ノヒメ」を自殺に追い込んだ |
5
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時じくの香の木の実 |
13 |
天皇は家来のタジマモリ(菓子の神様といわれている)に命じて、あの世の 木の実(今日でいう橘の実)をとらせに行ったが天皇は既に死んでいた |
❶垂仁天皇関係現地史跡巡り 奈良県桜井市の相撲神社 2015年(平成27年)10月1日探訪
垂仁天皇の時代「野見宿禰」について
相撲の始祖で、垂仁天皇の命令でタイマノケハヤと闘い勝利した
古墳の埴輪の提唱者でヒバスヒメの時の殉死から埴輪となった
❷垂仁天皇関係現地史跡巡り 島根県出雲市の出雲大社 2014年(平成26年)7月1日探訪
第13代出雲国造 野見宿禰の「野見宿禰神社」
52 第12代景行天皇
順 | 内容 | あらすじ・特記 |
1 |
后妃と御子 |
❶景行天皇(大帯日子オシロワケノスメラミコト)は纏向(奈良県 桜井市付近)の日代宮で天下を治めた ❷天皇の妻君は関係した女を含めて8名で、もうけた御子は80名 で、記録されているのは21柱、記録がないのが59柱である ❸御子で天皇継承権があるのが3人(小碓命、若帯日子命で後の13 代成務天皇、五百木之日子命)で77人は諸国に配属された ➍次期天皇の13代成務天皇は若帯日子命で母は八坂入姫 |
2 | 大碓命(オオウスノミコト) |
❶景行天皇は美濃国(岐阜県)にいる容姿の美しい乙女の姉妹を宮廷 に召し抱えるために御子の大碓命を遣わしたが、横取りして天皇 には別の女を献上した ❷景行の御世には、朝廷の直轄地を耕す田部、安房と相模の安房水 門、料理人の大伴部、大和朝廷の直轄地の屯倉を定めた |
3 | 倭建命の熊襲征伐 |
❶景行天皇は御子の小碓命(オウスノミコト、ヤマトタケルのこと)に 「どうしてお前の兄は朝夕の食事にでてこないのか、よく優しく兄を さとしなさい」といい、㏤経っても出てこないため、小碓命にどの ように教え諭したのかを聞いた ところ「夜明けに、兄が厠からでてくるのを待ち受け、捕え踏みつ け手足をもぎ取りこもに包んで投げ捨てた」といった、これをきい て景行天皇は彼の勇猛で荒々しい心をを恐ろしく思い熊襲建の征伐 を命じた ❷この時、小碓命は15~16歳の少年で叔母の倭比売命から衣装をもら い、懐に剣を入れて熊襲の館に入った。館は新築祝いの最中で小碓 命はもらった衣装で少女に変身し熊襲の女たちに紛れ込んでだ ❸そして、熊襲建の兄の胸を刺し殺した。おそれをなした弟の熊襲建 は逃げたものの小碓命は追いかけて弟の尻を刺した時、弟は小碓命 の素性を聞いて、「あなたこそ大和国の勇者で倭建命であります」 と名付けて讃え殺された |
4 | 倭建命の出雲建征伐 |
❶上京の途中、倭建命は出雲国にはいり首長の出雲建命を殺そうと 思い親しい友として近ずいた ❷斐伊川で水浴の際に倭建命は自分の偽りの太刀と本物の出雲建命 の太刀を交換し試合をして出雲建命を騙し殺した ❸そして、この時、倭建命は歌を詠んだ |
5 | 倭建命の東国征伐 |
❶景行は重ねて倭建命に「東国12国(伊勢・尾張・三河・遠江・駿河 甲斐・伊豆・相模・武蔵・上総・常陸・陸奥)」の服従しない者の 征伐を命じた ❷倭建命は勅命を受け、出発の際に伊勢神宮の叔母の倭比売に会いに 行き「西の悪者を討ってまもないのに再び東国征伐とは天皇は私が 死ねばよいとおもっているのでは」と愚痴を申し上げ泣き悲しみ、 彼女は「草薙剣」と「御嚢」を彼に授けた ❸尾張国に入って「ミヤズヒメ」と尾張に帰ってから求婚しようと約 束だけして更に東国に進み天皇に服従しない者の平定を進めた ➍相模国(駿河国の間違いか)に着いた時、国造が嘘をつき「この野原 の沼に荒々しい神がいる」と言い、倭建命が見に行ったとき、国造 は野原に火をつけて焼き殺そうとした。騙しにきずいて、叔母から もらった剣と嚢の中の火打石で敵の方に火勢を退かせ脱出して国造 らを皆殺しして死体に火をつけた それゆえに、この地を「焼津」という ❺相模から更に走水海を渡るとき海が荒れて倭建命の后の「オトタチ バナヒメ」が御子の身代わりに海に入り、恐ろしい荒波は自然に静 かになった。この時彼女は歌を詠んで7日後に、彼女の櫛が海岸に 着いて御陵をつくって埋葬された ❻倭建命は上総に進み、更に蝦夷らを服従させ、帰還の際に足柄山の 麓で昼食の乾飯を召し上がっているとき、その坂の神が白い鹿に化 身してやってきたため食べ残しの野蒜の片端を投げて鹿の目に当て て打ち殺した。そして、その坂の上に登りオトタチバナヒメを追慕 して三度もため息をつき『わが妻よ(吾妻)」と 絶叫した。その国は 「阿豆麻」という ※日本書記では碓井峠となっているのでそれより東が「あずま」と いう ❼更に甲斐の酒折宮に滞在したとき倭建命は歌を詠んで、続けて夜警 の老人が歌を詠んだのを褒めて東国造の姓を与えた |
6 | ミヤズヒメとの合歓 |
❶甲斐国から信濃国の坂の神をも服従させ、以前に結婚の 約宣をした尾張国のミヤズヒメの家に入った。彼女は食事を差出し 、倭建命は彼女が月経中ときいて歌を詠み彼女も返歌して結婚した ❷倭建命は帯刀している草薙剣をミヤズヒメに預けて伊吹山の神を打 ち取りに出かけた。そして、白い大きな牛のようなイノシシと出会 い「山から帰る時殺してやろう」と言って山に登った。すると激し い氷雨が降り倭建命を惑わした。それで、山を下り、玉倉部の清水 に着いてお休みになった時、少し正気を回復された。その清水は 「いさめの清水」と言われている |
7 | 望郷の歌 |
❶玉倉部を出発して美濃の当芸野(たぎの)に着いた時、病身で足も 腫れあがって曲り杖をつくようになった。そして、置き忘れた 草薙剣を思い出し歌を詠まれた ❷そして、三重に着いた時には、足は三重に曲げた餅のように腫れ て疲れた体となっていた ❸それから能煩野(のぼの)に着いた時に故郷を偲んで歌を詠んだ
「倭は 国のまほろば たたなずく 青垣 山隠れる 倭し美し」 等3 首 そして、病気が急変し「ミヤズヒメのところに置き忘れた剣」の 歌を詠まれるやいなや薨去(こうきょ)された。従者たちは朝廷へ 倭建命の死を早馬で知らせた ※「まほろば」 国の中で優れたところ ※「薨去」とは 天皇以外の死で使う、天皇の時は「崩御」 で古事記では「崩」の字を使い天皇並の扱いとしている。 なお、常陸風土記では桓武天皇・橘皇后で天皇として記載して いる |
8 | 天翔る白鳥 |
❶大和にいる妃や御子たちは野煩野にきて御陵をつくり田を はいまわって泣いたとき倭建命の魂が大きな白鳥となって 伊勢国から河内国に飛んで行った。 追いかけていった歌を含めて4首が倭建命の葬儀に歌われた ※泣き女が当時いたと思われる ❷白鳥の飛んで行った河内国の志紀(大阪市柏原市)にも御霊を 鎮座させるため白鳥御陵をつくり、国々の平定時に倭建命に 巡行した料理人のナナツカハギ(久米直の祖先)を仕えさせた、 白鳥は再び空高く飛んで行った 昔の人は霊が鳥になっていくということが通説であった |
9 | 倭建命の子孫 |
倭建命の御子は6柱で、垂仁天皇の娘の「フタジノイリビヒメ ノミコト」である叔母さんとの間に生まれた御子が14代仲哀天皇 (帯中津日子命)である
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テキスト資料
❶景行天皇関係現地史跡巡り 奈良県桜井市の纏向遺跡 2015年(平成27年)10月1日探訪
❷ヤマトタケルゆかりの地巡り 日本武尊白鳥陵(前の山古墳)大阪府羽曳野市軽里3丁目 2018年(平成30年)10月17日探訪
❸ヤマトタケルゆかりの地巡り(出雲建征伐の舞台 出雲の斐伊川) 島根県出雲市 2014年(平成26年)7月1日探訪
➍ヤマトタケルゆかりの地巡り(走水海でのオトタチバナヒメ)千葉県木更津市太田山公園 2013年(平成25年)4月17日探訪
53 第13代成務天皇
順 | 内容 | テキストページ | あらすじ・特記 |
1 |
政務天皇 | 下記 |
95歳で死去 景行天皇の四男、八坂姫との間に生まれた若帯日子命である ヤマトタケルの異母兄弟 近江の志賀の高穴穂宮(滋賀県大津市坂本)にて天下を治めた 大臣を建内宿禰に任じて大小の国造を定め、国々の境界、県主を定めた 子は男子「ワケヌカノミコ」一人だけだが日本書紀には男子はいなかったと記載 妻は一人だけ
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テキスト資料
❶成務天皇時代の史跡巡り 千葉県大網白里市の縣神社 2020年(令和2年)7月28日探訪
54 第14代仲哀天皇
順 | 内容 | あらすじ・特記 |
1 |
后妃と御子 |
❶仲哀天皇(タラシナカツヒコノスメラミコト)は穴門の豊浦宮 (山口県下関市長府宮の内町)と筑紫の香椎宮で天下を治めた ❷仲哀天皇は大中津比売命と息長帯日売命の二人と結婚した。 前者には「香坂王」と「忍熊王」の2柱をもうけ、後者(神功 皇后)には「ホムヤ和気命」と、生まれた時に鞆(とも)のよう な肉が腕にできていたので命名した「大鞆(ホムダ)和気命」の 2柱をもうけた |
2 | 神功皇后の神がかりと天皇の崩御 |
❶神功皇后(息長帯日売命)は仲哀天皇が香椎宮で熊襲討伐時に 神を呼び寄せるために琴を弾き、建内宿禰が沙庭(神を降臨さ せるところ)で神のお告げを乞い求めた時、皇后は神がかりし て「西の国に宝物がたくさんある国を天皇に従属させてあげ る」と神託で教えた ❷天皇は「高いところに登っても大海が見えるだけでその国土 は見えない、嘘をつく神だ」と言い、琴をひくのを止めて黙っ ていた。すると、その神はひどく怒って「この国はお前が統治 する国ではないので黄泉の国へ行け」といった。これを聞いた 建内宿禰は「恐れ多いことです、琴をお弾きください」といっ たが天皇はいい加減に弾いた。すると、いくらもたたないうち に琴の音が聞こえなくなり天皇は既に亡くなっていた ❸この有り様をみた一同は驚き恐れて亡骸を安置して国中から 「罪とけがれ」を払うため贈品と国民が犯した罪のいろいろを 集めて大祓いをした ➍建内宿禰は改めて神託を受ける庭でお告げを求めた 神託は 「この国の統治はそなた(皇后)の御腹にある子」 「お腹の子は男子」 「御神託の神は天照大御神で、又、住吉の底筒男・中筒男・ 上筒男である」 ※住吉三神は航海の神で筒は星の意味でオリオン座の三つ の星をさす説がある 「本当に西の国を求めようとするなら、天地・山・川・海 のあらゆる神に供え物を献上し、私の魂を船に祀って真木 を焼いた灰を瓢箪に入れて、箸とヒチデをたくさんつくり それらをすべて大海に散らし浮かべて海を渡れ」と仰せに になった |
3 | 神功皇后の新羅親征 |
❶神功皇后は神託の教えのとおり軍隊を整備して西の国へ向 かった。船はすべての大小の魚が背負い、追い風も吹き、 波で新羅国の半分まで達した ❷新羅の国王は恐れて、今後は「御馬飼(みまかいとは属国の意味) 」となって天皇の命令に従うと言ったため、皇后は杖を国王の 門に突き立てて、その国の占有権を標示して住吉三大神をその 国の守り神として鎮め祀って帰った ❸新羅親征の政がまだ終わらないころ皇后は身ごもっている御子 が生まれそうになり腰に石をつけ出産を鎮め、そして筑紫国で 出産した。このため、出産地を「宇美」という地名となる。 石は伊斗村にある。又、松浦県玉島里(佐賀県唐津市)の玉島川 で食事の際に飯粒で年魚(鮎)つりしたことから今日まで毎年㋃ 上旬絶えないで行事としておこなわれている |
4 | 忍熊王の反逆 |
❶神功皇后は大和に帰る時忠誠心をためすため、皇太子(後の応神 天皇)の訃報を言い触らし、策略にはまった異腹の皇太子の二人 のうち兄の「香坂王」は皇后を待ち受け殺そうとするが猪に食 い殺される。 ❷もう一人の「忍熊王(おしくまおう)」は皇太子の家来 の建振熊命の計略で「皇后は既に死去した」との偽りの降伏の 策略にかかり油断したため、近江の琵琶湖まで追い詰められて 全軍滅ぼされてしまい、彼の将軍の伊佐比宿禰と歌を歌い湖に 身を投げ死んでしまった ※「楽波」 「さざなみ」と言い「琵琶湖」のこと 「にほ鳥」 「カイツブリ」のこと 「淡海」 「近江」のこと |
5 |
角鹿の気比大神 |
❶建内宿禰はオシ熊王との戦いで死の穢れをはらうための禊を するために太子(後の応神天皇)をつれて越の国の入口の若狭 の国の「角鹿(つぬが)」(現在の福井県敦賀市)に宮殿をつくっ て住まわせた ※越の国は江戸期に越前・越中・越後にわかれている ❷地元のイサザワケノ大神が太子への名前献上を建内宿禰の夢の 中で 申し入れて名前を変えたお礼に浜で鼻の傷ついたイルカ を献上した。この浜は「血浦」といい「角鹿」といわれている ❸返礼として御食津(ミツケ)大神と名付け、今では気比大神(食料 の神様)とよばれている ※「気」は「食」で 「比」は「霊」の意味 |
6 | 酒楽の歌 |
※「酒楽」 さかくら ※「待酒」 帰ってくる人の無事を祝ってつくる酒 ※酒は神を呼び寄せる力がある→ 古代の人は「状況がかむあが り」状態になるので信じてい た ※「あやに」 「妙に」の意味 ※「ささ」 「さあさあ」の意味 |
テキスト資料
❶仲哀天皇関係現地史跡巡り 仲哀天皇陵(岡ミンザイ古墳) 2018年(平成30年)10月17日探訪
❷仲哀天皇関係現地史跡巡り 福岡県福岡市香椎宮 2016年(平成28年)10月6日探訪
55 第15代応神天皇
順 | 内容 | あらすじ・特記 |
1 |
后妃と御子 |
❶父は仲哀天皇で母は神功皇后で母のお腹の中にいるときから次期の天皇 と定められていたので「胎中天皇」ともいわれている ❷品陀和気命(ホムダワケノミコト)は軽島の明宮で天下を治めた、誉田別 尊とも記載されている ❸三柱の女王「高木之入日売命」「中日売命」「弟日売命」と結婚されて、 天皇の御子は26柱で皇子は11柱・皇女15柱をもうけられて天下を治めら れた。この中で「中日売命」の子の「大雀命」が次期天皇の仁徳天皇と なった ➍詳細は下テキスト資料1~2のとおりで、最初に紹介されている人が身分 が高い |
2 | 三皇子の分担 |
❶応神天皇はわが子の異母兄弟の次男の大山守命と四男の大雀命(オオサ ギノミコト)を呼び次期天皇をほのめかす質問をした ❷質問は「兄と弟といずれが愛しき?」と問い、前者は「兄」後者は 「弟」と返事した ❸応神天皇は内心は六男のワキイラツコと思っていたので膝をたたいて 「大雀命の考えと同じで次期天皇はワキイラツコとして、大山守命は海 と山の政治を、大雀命は次期天皇を助けてこの国の政務にあたれ」 と言った |
3 | ヤカワエヒメとの結婚 |
応神天皇が近江国に出かけ宇治の木幡村に着いた時、別れ道で美しい 乙女の「ヤカワエヒメ」と出会い、歌を詠み、結婚され、お生みにな った御子が「ワキイラツコ」である |
4 | 日向の髪長比売 |
❶応神天皇は日向の髪長比売という容貌の美しい乙女をそば使いに召 し抱えようとしたが ❷大雀命は彼女が難波の港に泊まっているとき、一目惚れして、建内 宿禰大臣に「天皇に彼女を私に下さるように」とお許しの進言を乞 い願った ❸この後、天皇は即座に大雀命に彼女を賜えた。この時、天皇と大雀 命は歌を詠んでいる |
5 | 吉野の国栖の歌 |
吉野の国栖の「大雀命の刀を見ての歌」と「彼へ酒を献上したときの歌」が 詠まれている |
6 | 百済の朝貢と酒の歌 |
❶応神天皇は百済王の照古王に賢人の「和邇吉師(ワニキシ)」と鍛冶の技術 舎「卓素」と織女の「西素」を献上させた ❷また、酒の醸造を知っている「須須許里(ススコリ)」というものが渡来 して天皇に酒を献上した。この時、天皇は気持ちが愉快になり歌を詠まれた |
7 | 大山守命の反乱 |
❶応神天皇の死後、大山守命は挙兵しワキイラツコを殺そうと計った ❷この動きを知った大雀命はすぐにワキイラツコに注進した ❸ワキイラツコは自分の替え玉をあぐらに座らせて、自分は船頭になりすま し兵を隠す策略で、船に乗ってきた大山守命を船を傾けさせて水の中に 落とした。大山守命は、この時に歌を詠まれ、隠れていた兵の矢でとどめ をさされた。遺骸を上げた時、ワキイラツコは歌を詠まれて彼を奈良山に 葬った ➍その後、ワキイラツコは大雀命に皇位を譲ろうとしたが大雀命は応神天皇 の勅命を守ってお互いに譲りあう状況が続き、ワキイラツコの死去後に 大雀命が天下を治めた |
※下記の古事記の順8・9は皇室と関係ない話で、新羅出身の「天の日矛」の関係氏族がいかに
古事記にかかわっているかとの説がある
順 | 内容 | テキスト | あらすじ・特記 |
8
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天之日矛の渡来 | 14~16 |
❶昔、新羅の国王の子の「天之日矛」が我が国に渡来してきた ❷卑しい女から卑しい男がもらった赤い玉を、天之日矛は卑しい男から 「牛殺しの容疑での捕縛のかわり」に手に入れた ❸赤い玉は美しい乙女に姿を変え、彼女と結婚して正妻としたが、彼が 高慢になりののしるので、彼女はこっそりと「祖先の国へ行く」と言 って小舟で逃げ渡って難波にとどまった ➍天之日矛は妻を追って難波に行こうとしたが海の神がさえぎったため 但馬国に停泊した ❺そして、彼はその国にとどまってタジマノマタオの娘の「前津見」と 結婚した。※彼らの子孫で神宮皇后の母君の「葛城之タカヌカ比売命」 がおられる ※彼が渡来して持ってきた珠・領巾・鏡の計八種は出石神社に祀られて いる |
9 | 秋山の神と春山の神 | 17~18 |
❶ここの出石大神の娘で「イズシオトヒメ」がいた。多くの神が妻に得たい と思ったが出来なかった ❷ここの秋山の神(兄)と春山の神(弟)とが、兄が妻にできなかったので弟に 妻に出来るかどうかで賭をした ❸弟は賭の内容を母に話したところ、母は藤のツルを取ってきて、一晩の うちに上衣・袴・弓をつくり弟に着かせ持たせ娘の家に行かせたところ それらが藤の花に変じた。そして、その弓矢を娘の家の厠にかけておいた ➍それを不思議に思い厠から持って帰り、その時、弟は娘の後をつけ母屋に 入り、そこで結婚した ❺しかし、兄は弟が結婚したことに立腹して賭物を渡さなかったので、弟は 母に訴えた。母は兄を恨み出石川の洲に生えている一節竹で荒籠をつくり 中に川石を塩でまぶし竹の葉を入れ、弟に呪詛させた。このため、兄は 8年の間、体が干からび病んで死にそうになった ❻兄は悲しみ泣いて母に許しを乞い、すぐに呪詛品をとり除かせた。すると 兄の体は前のように回復して健やかになった |
テキスト資料
❶応神天皇関係現地史跡巡り 応神天皇陵(誉田御廟山古墳) 2018年(平成30年)10月17日探訪
❷応神天皇関係現地史跡巡り 応神天皇皇后仲姫命陵(仲津山古墳) 2018年(平成30年)10月17日探訪
56 参考資料 ⑴古代天皇の系図
⑵古代天皇の即位・退位